2007年08月29日

南中町『一屋』の金つば

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左から『一屋』の旧店舗、真ん中が永尾米店、右が新店舗で昔は履き物屋だった

 初っぱなから寄り道すると、「きんつば」という和菓子は江戸時代に生まれた。漢字で書くと「金鍔」。刀の鍔のような形をした和菓子という意味合い。同じく「銀鍔」という和菓子もあったとのこと。「鍔に似ている」くらいだから形は楕円形ということになる。でもボクが1960年代はじめに『一屋』で生まれて初めて食べた「金つば」は上から見ると真四角、横から見ると長方形だった。「金つば」が真四角になったのは確か明治か江戸の後期。餡を練り、丸く作り、小麦粉の溶いたものをくるめて焼くという本来の形よりも、大きな型枠に葛などを入れた練り餡を流し込み、四角く切ってか6方を焼く方が大量生産できるということで現在の「金つば」の形になったという。関東では今でも丸く平べったい蒸し「金つば」が残っている。

 話をやっとこさ『一屋(かずや)』にもどすとする。さて、ボクが物心ついた頃、1960年前後に『一屋』は開店したはずだ。確か店主の平井さんは猿飼か端山の人。町史の昭和39年(1964年)の街並み地図にはしっかり『一屋』が記載されている。
 子供心に『一屋』の店先は夢のような空間だった。入って右手にガラスケースがある。そのケースの上には市販のチョコレートやガム。奥には「お嫁さんの菓子」や砂糖(花や魚を形作っている)があったと記憶する。1960年代というのは新しい銘柄のチョコレートやガムがどんどん誕生した時代。ロッテの「ラミー」、不二屋の「ルック」、「チョコボール」に「プリッツ」。ロッテのペパーミントガムや懐かしい「渡辺のジュースの素」というのもある。特に「渡辺のジュースの素」は『一屋』で買ったのが最初だったはず。

 そのガラスケースの向こうに、当時まだ若くてきれいな女将さんいた。いつもは奥にいるオジサン(平井一彦さん)も優しい人であったなー。祖母とまんじゅう(和菓子)を買いに行く。当然、ひとりに一つずつなので、そのひとときが真剣そのもの。ちなみに当時のボクの夢というか願望が「『一屋』のまんじゅうを腹一杯食べる」ことだった。
「吹雪き」「金つば」、柿の形をしたもの、茶色いまんじゅう、白いまんじゅう。ボクがいちばん好きなのが何と言っても「金つば」であり、次に好きなのが柿の形をしたものだった。春には道明寺の桜餅があって、東京に出る前は「桜餅」=「道明寺」だった。また柏餅というのは『一屋』ではサルトリイバラの葉のもの。これなど貞光町全体が「柏餅」はサルトリイバラで作るものだったから気にもかけなかった。
 そう言えば「鹿子」という真ん中が漉し餡、回りが粒あんを葛などで丸くしたものもあり、こればっかり買っていた時期もあった。まんじゅう以外では夏場の「わらび餅」も懐かしい。透明なビニールに入っていて黄粉の小袋が1つつく。この黄粉の袋をなんとか余分にもらいたいな、と思っていた。

 今回の帰郷で、それこそ何十年か振りに『一屋』でまんじゅうを買った。店舗は昔の場所ではなく、永尾米店の南側。子供の頃には真鍋履物店のあった場所に移転していた。この真鍋履物店にはボクより2歳年少の男の子がいたはずだ。永尾米店は子供の頃から米屋というよりも、デッカイ仕舞た屋風。重厚感のある近寄りがたい家だった。

 久しぶりの『一屋』、店にはいると、若い女将さん。これは2代目の奥さんであるようだ。そして奥から懐かしいオバサンが出てきてくれた。やっぱり奥では今まだ現役のオジサンが和菓子を作っているという。
 懐かしい顔に出会えて、子供の頃に立ち戻ってしまいそうだ。そしてガラスケースに探したのが、真四角の「金つば」。それがこの日品切れであった。『一屋』の店先に立ったときから、心の中で「金つば、金つば」と称えていたので、落胆は大きい。仕方なくボクは吹雪き、まんじゅう好きの太郎は栗まんじゅうと白いまんじゅう。

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 この吹雪とまんじゅうを町歩きの最中に、また飯田屋に入って、うどんが来る間に食べたが「やっぱりうまい」。しかしなんとしても悔しいのが『一屋』の「金つば」を食べられなかったことだ。父も老齢だし、また近い内に貞光に帰ってくるだろう。そのときこそ太郎と「金つば」を5つも6つも食ってやる。

 店の隅を見ていると子供の頃「嫁さん菓子」と言っていたと記憶する。平べったい砂糖味の菓子があった。これも懐かしいな。記憶が正しいとすると結婚式などに使われたものだろうか?

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この菓子は懐かしい。「嫁はん菓子」「嫁さん菓子」と言っていたが正式名がわからない

 話は1970年代半ばに移る。この当時、『一屋』で買っていたのがコカコーラの1リットル瓶である。これも懐かしい。これを買い込んで、同級生とボクの部屋に集まっては騒いでいた。今は島根県で水産高校の教師をしているカンイチ、ヒゲ、鶴野、美馬町(現美馬市)の藤本勝紀。何をやっていたかというと、当時のヒット曲「あなた」のレコードをかける。それに合わせて銘々が歌うのだ。その歌声を録音して聞くという遊びである。レコードに合わせて歌っていると、なぜだか歌がとてもうまく歌えている気がする。でもそれを改めて5インチのテープレコードで聞き直すと、恐るべきヘタクソ振りなのだ。このバカ騒ぎを勉強しながら寂しく聞いていたのが隣の阿佐のテッチャンである。まあテッチャンは東京理科大、ボクは一浪して中央大学という差はここに生まれたんですな。

一屋(かずや) 徳島県美馬郡つるぎ町貞光字町9
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2007年08月26日

祇園さんから下る坂

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 祇園さん(八坂神社)は子供の頃(1950年代の末から1960年代の初め)遊び場のひとつ。そこから町へ下る坂である祇園小路は小学校からの帰り道でもあった。左手が織本屋の塀、正面に見えるのが阿佐商店の倉庫だと思う。手前右はその昔、本木という家で乳牛を飼って、牛乳販売をしていた。
 左手に長く続く織本屋の塀は白壁に平瓦葺き。塀に沿ってやや深い溝があった。溝と言うよりも祇園さんへ続く坂道が実は盛り土されて出来たものかも知れない。

 この道で思い出すのは祇園さんのお祭り(季節も、何月にあったのかも忘れている)のときのこと。境内を目差す人でごった返していた。でも今、改めてこの道を見るとなんとも狭い細長い坂道であることか。
 祇園さんのお祭りには、境内だけではなく、手前にある黒住教、地蔵堂の広場、町に下って織本屋、谷医院のあたりまで屋台店が並んだ。思い出すのは黒住教の前当たりに毎年のようにパチンコ台が並んでいたこと。

 この本木(間違っているかも)にはボクよりも年長の男ばかりの兄弟がいた。一番下の子でもボクよりも5歳くらいは上だったはず。よく山に連れて行ってくれて、「おべん(アケビの実)」を取ってくれた。また驚くほど木登りが上手で西山の谷(地図を見ると南谷川)の斜面の突出して高い木に上り、クマゼミを手で捕まえたのを記憶している。

 この坂道ではよく遊んだ。坂道のいちばん上から三輪車、二輪の子供用自転車で一気に下りる。確か一緒に下っていた子が織本屋の溝に落ちた。誰だったろう、思い出せない。
 四国とはいえ、冬には雪が積もることもある。そんなとこには「きんま(木馬 木で作った橇)で下った。でも冬でもあまり気温が下がらないので、なかなか滑るという具合にはいかなかったな。

 正面に見えるのが東山(ひがっしゃま)である。そう言えば東山という名の山なのだろうか?
posted by ぼうずコンニャク at 17:42| Comment(4) | TrackBack(0) | 路地の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月22日

どんがんは元気だろうか?

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 帰郷した日は梅雨、しかも台風4号直撃ということで小川(こがわ 貞光川)は増水していた。「水が出た」といっても昔のことを考えると微々たるもの。潜水橋の脚の5分の一ほどの水かさで、もともと土砂がたまった状態のため川としては通常の状態になったといったものだった。
 画像の橋が潜水橋。貞光では「長橋(ながばし)」と言う。洪水のときにはこの橋の道路面まで水が上がり、それこそ橋が沈みそうになったこともある。

 そうだ、その昔、小川は水量豊かなきれいな流れであった。そんな流れの淵に住んでいるのが“どんがん”だ。
 ボクはまだ“どんがん”には合った(会った?)ことがない。また写真、絵なども見たことがなく、いかなる生物なのか見当もつかない。
“どんがん”が言葉だけで登場するのはお盆と川が増水したときだ。
 川が氾濫すると、災害などを心配するとともに、町の魚取りたちは勇立つ。大きな網を肩に担いで、流れのところどころにある湾のような水のゆるむ場所、谷の流れこみをすくっていく。すると普段はなかなかすくえないアユやウグイ、ウナギなどがごっそりとれるのだ。ボクも子供ながらにこれをやってみたくて仕方がない。それにすくっているところを見ているだけでもワクワクする。
 大雨が来て、そろそろ川が泥濁りになっているだろうとゾウリを履いて飛び出していく。
 それを見ている祖母が必ず言うせりふが
「こんな大水のときに川にいったら“どんがん”にとられるぞ」
 というものだった。
 またお盆のときにも
「地獄の釜があいとる。“どんがん”もおるんでよ。尻食われるきん、川にいったらいかん」
 なんて言われたものだ。

 この言葉だけの未知の生物“どんがん”、今でも元気だろうか? 誰も小川がこれほど荒廃するとは思っていなかっただろう。いまでも淵として残っているところはあるのだろうか? 例えば「奥がん」とか「下がん」とか。
 そう言えば、この淵の名前にも「がん」がつく。この「がん」が「丸」だとしたら、水底が丸くえぐれて深くなったところ、淵となる。また「どん」が副詞的な言葉だとしたら「どんと深くなった淵(がん)」ともとれる。このあたり徳島の民俗学者に問いたい気がする。

 大人になって“どんがん”は河童かも知れないと思うようになった。河童とは中国の河伯などが我が国に伝来して土地土地で変化したもの。ある一定のイメージがある。でも“どんがん”にはそんなものがいっさいないのだ。今では“どんがん”は河童とはまったく違った生物だと思っている。
 また“どんがん”が「山で子供をさらうおとろしい妖怪」であると香川「みとよの方言」にある。とすると貞光固有の言葉ではないということだ。
「みとよの方言」
http://www.netwave.or.jp/~fujimaru/uttkari/mitoyo-db/hougen2.htm

 子供の頃、川で死ぬ子供は少なくなかった。夏休み明けには「●●君が変電所のところで心臓麻痺で死にました」とか「大川で流された」とか、「長橋の上でカミナリに打たれて死んだ」、とか聞かされたものだ。思い出すのは小学校で夏になる前に一本松の淵で水泳訓練のようなことをやる。確か三年のときに同級生が岩から飛び込んで浮いてこなかった。この子の名前を忘れてしまったが、田岡の食堂から浦山に上る坂の途中の長屋のような建物に住んでいた。小柄な子だった。この子も“どんがん”にさらわれたのだろうか。
posted by ぼうずコンニャク at 11:08| Comment(4) | TrackBack(0) | 貞光川/小川 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月17日

貞光町初のスーパーマーケット「マルサン」

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 貞光に初めてスーパーが出来たときのことを、はっきりと思い出すことが出来る。トン、トトトンと煙火が上がっていた。たしか飛行機が青空を横切りビラを撒いた。煙火で上がったものか、飛行機から落とされたものか、落下傘のようなものが落ちてきて、子供(ボクも)が追いかけていたようにも思える。確か「飯田のさんぱっちゃ」の路地を西に曲がったとき、どこかのお兄さんが落下傘を手に持ってすれ違った。これが何時頃のことなのか今では判然としない。小学校低学年であったような、もっと上であったような。

 その貞光初のスーパーというのが、部落名(野口かも知れない。このあたりの町内の細かい地図はどこで手に入れたらええんじゃろうかの、cb72type1さんよ? このハンドルネーム誰にもわからんぞ。ヒゲにしろ! それに阿波踊りで酔っぱらうな!)はわからないのだが、小学校東側の道路、西浦線(道路というよりは一般概念では路地ほどの広さしかない。参考/『貞光風土記』柳川武夫)に面していた。

 この道沿いには同級生の鶴野(鶴野モータース)がいて、確かスーパーの斜め向かいだったように思える。この西浦線にも思い出は多く、例えばこのスーパーがあった北側に大きな釣瓶井戸があった。この釣瓶というのは井戸のところに長い木がテコとして付いていて、そのテコの跳ね上げで水を汲む。またこの釣瓶井戸のあたりには怪しい「オオサンショウウオの見せ物」とか「蛇売り」が来ていた。そう言った場所だったんだろうか? この辺りは。

 閑話休題。
 子供心に「スーパー」という言葉にワクワクした。テレビではよく見ていたものの、そんな都会的なものが本当に「ウチんくの町にくるんじゃろうか?」と疑ってもいた。
 さてボクと姉と兄の三人は祇園さんから南は折り目(折本屋酒造所)に面する西浦線を北に下る。武市屋敷を超えて、西から坂道が下ってきていて四ツ辻庚申、東からやや広い路地が合流、そのまま北に進む。少し進むと左手に大きな農家のような屋敷があり(ここを通り抜けると小学校の近道だった)、そのまま北に下る。左手に幼稚園小学校の入り口の道路、角が駄菓子、食料品、文具、玩具、プラモデルなど、なんでもありの井川があった。そこから北にまたまた下ると、左手に貞光初のスーパー「マルサン」が見えてくる。ここはゆるい坂道で、「マルサン」の店内にはコンクリートが一段下がって打っていたように思う。今で言うところのプレハブの一階建てでしかないが、当時としては大きな建物。残念ながら店内のことはどうしても思い出せない。

 ボクたち兄弟の目差すものは白いマジックだった。ちなみに「マジック」は大阪市の「寺西化学工業」の商品名である。ここに問い合わせると白いマジックが登場したのが1958年であるという。とするとボクが幼稚園、小学校低学年としても発売して3、4年は経っていたはず。そんなものが珍しかったのだろうか? そして買ったのが不二屋のパラソルチョコレート
 そう言えば不二屋の歴史を見ているとパラソルチョコレートの発売が1954年、ルックチョコが1962年、ネクターが1964年とある。このどれもが記憶に残っている。ちなみに「オバケのQ太郎」のテレビ放映が1965年に始まっている。「オバQ」での不二屋のコマーシャル「パラソルチョコレートの傘の取っ手が何かに掛かっていてクルクルまわる」、というのも懐かしい。
 こんなお菓子の歴史を見ていると「マルサン」開業は1960年代はじめではないか?

 ここで話はそれるのだが、字町(本町)1964年の地図を見ていると「美馬生必」というのがある。本当はこれが貞光最初のスーパーかも知れない。「せいひつ」「せいひつ」と大人の会話にはよく出てきていた。
 この時代、まだスーパーが商店街に与える打撃なんて問題視されていなかった。たぶん貞光の商店街が大きな打撃を受けるのは1970年の旧ボーリング場が大型スーパーになったり、役場前に「トーア(間違っているかも)」が出来てからだと思う。

 この「マルサン」その後に貞光駅の西側、たぶん現住所で馬出に移転した。移転してからもなんどか行った記憶がある。でもいかんせん遠すぎた。

 思い出の世界から2007年の帰ってくる。驚いたことに移転後の「マルサン」がまだ残っていたのだ。今でもなんらかの形で営業しているのだろうか?


つるぎ町商工会議会「貞光商工会」
http://www.tsci.or.jp/sadamitsu/
posted by ぼうずコンニャク at 12:19| Comment(3) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月15日

南中町「福田屋」

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 この店のどこかに福助の絵、もしくは人形があった。その絵柄は子供に江戸時代を思わせるものだった。その当時、白黒テレビ映画で見る江戸時代というものが、どこか暗く漠然としたものであって、この福助が、その暗黒への入り口に思えた。話はそれるが当時、江戸時代というのは、そんなに遠い世界ではなかった。たしか民俗学の世界では江戸時代は昭和30年代までは「そこここに見られた」とあったはずだ。またテレビでの江戸時代は「三匹の侍」などから漠然と感じ取った、漠然として光景だった。
 また、福助は殿様なんだろうか? どうしてお辞儀をしているのか謎でもあった。

 大人にとっては福助=福助足袋和装小物着物関連の店であるのはわかりそうなものだが、子供にとっては運動会の「足袋」を買う店でしかなかった。
 ボクが小学生の頃、運動会の徒競走は、足袋をはくのが普通だった。普段は靴を履いているのに、このときだけは白足袋なのだ。今でも白足袋を履いたときの地面の冷たさが思い出される。小学校低学年の運動会の思い出と言ったら、この地面の冷たさと、「もしもケツ(お尻、すなわち最下位)になったらどうしよう」というドキドキ感だけだ。

「福田屋」の店に向かって左側が「店(確か貞光では畳敷きになっていて店員、店主が座る場所をこう言ったのだ)」で、右側が硬い土間であったと記憶する。右側の奥にまた畳敷きの場所があり、この奥手から足袋などが出てきた。その当時はセンチではなく「文」だった。この店内をもう一度確かめたいなー。

 この店で未だに謎なのが教科書がここで子供に手渡されたように記憶することだ。小学生か中学生の頃、なくしものの得意な劣等生で、よく教科書の行方がわからなくなった。そのとき「福田屋」でもう一度買えるんだろうか、と思ったものだ。

 貞光の商店街、うだつの特徴は二層式で、しかも本瓦葺きであること。そして二階が低いというのも他の建物をみるとわかる。それがここだけが二階が高いのである。これも謎だ。

 ボクが小学校一年(1963年かな)のとき、まずは金川金物店の同級生と一緒に南中町を北に歩き、「福田屋」の隣、「飯田のさんぱっちゃ」の同級生と一緒に明治橋まで歩く、その明治橋の栗尾商店と大久保百貨店の間の路地を左に折れて小学校に向かったのだ。同級生とは書いたけど、ふたりとも美人だったら、どうするの。例えば六歳、七歳で、三人で並んでボクだけ男で。「恥ずかしかったな」、ボクはいてもたっても居られなかった。そしてどうしてボクの幼なじみがこんなに可愛い女の子なんだろうと、惑乱していたのだ。
posted by ぼうずコンニャク at 22:27| Comment(9) | TrackBack(1) | 商店街の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月14日

東浦南に抜ける小道

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右手が“じろはん”の家、左手が高来家。貞光川から南町にもどる

 南町から、貞光川におりるには、南町の北の端っこ、松浦薬局南側の細い細い路地を東に抜ける。町の家作は間口も広いが奥行きはもっと長く、裏手に貸し屋や長屋がある場合が多い。松浦薬局には貸し屋はなく、それでも波打つ黒いトタンの塀は長い。南にも家作はあり、これは岡家のもの。ここにもいくつもの貸し屋があった。
 松浦薬局建物を東に、ゆっくり下りながら通り過ぎると北に芋(とろろ芋)のツルを這わした垣根。この垣根でよくたわむれにむかごをとった。その垣根の奥が長屋で金川金物店のもの。ここに「いずみ(漢字がわからない)のあんにゃ(あんちゃん)」という人がいて川に連れて行ってもらっていた。その反対側が狭い畑。そこからまた歩くと右手に高来家、左手に“じろはん”の家があった。

 この“じろはん”はボクよりも7歳近く年上だったはず。東浦の子供にとってのガキ大将的な存在で、幾人もの子供を引き連れて歩いていた。ボクは所謂、東浦の子供ではなかったが、ときどき“じろはん”に着いて歩いていた記憶がある。
 たぶんスポーツも出来るし、男気もあるという人だったのだろうけど、ボクとは年齢が違いすぎた。“じろはん”の家を左に見ると、正面に南北に通じるやや広い路地がある。
●注/貞光では年長者などを呼ぶときに「さん」ではなく「はん」と名前の後に敬称がつく。

 ボクはこの路地で気を失ったことがある。子供の頃、夏は、わらびもち、寒い時期には、薄っぺらいお好み焼きを売るおじいさんが、町内を屋台を引いて歩いていた。このおじいさんのことは多分、2007年現在40歳代後半から60歳くらいの方はみな記憶があると思う。それほど目立つ存在であったはずである、子供には。その屋台を“じろさん”の家の門前で見つけて、1,2メートル歩いたときに気を失ったようだ。気がついたときには、小さな溝に頭をつけるように倒れていた。助け起こしてくれたのが、この屋台のおじいさんだった。

 この今ではあまりにも細い過ぎる路地を、右手に“そろ(竹製の土などを運ぶ片側が開いたザルのようなもの。これが1960年前後の魚取りの道具だった)”、左手にバケツを持って目指すは貞光川である。この道を歩くのは30年近ぶりのことだろう。なのに今でも鮮明に、はっきりと“そろ”の回りのやや太い竹の感触、ブリキのバケツの底が日差しに反射して眩しかったことが思い出される。
posted by ぼうずコンニャク at 16:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 路地の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月12日

うだつの商店街は生きている

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明治橋から南中町、南町

 全国的に見ても貞光町のうだつの上がる商店街は美しいと思う。確かに隣接する美馬市脇町の方が電柱の埋め込みなど整備され規模も大きいかも知れない。でも脇町と貞光の根本的な違いは、「脇町は街並みは保存されているかも知れないが、街の機能は失われてしまっている」、対するに「貞光の街並みは生きて現役の商店街である」ということ。
 街歩きが大好きなボクにも、死んでしまって形だけのこる街並みにはなんの興味も持てない。先日、岡山県倉敷市に行ったのだけれど彼の「美観地区」というものには行ってみたいという感情すら浮かんでこなかった。それに対して魅力があったのが飛騨高山である。この街の魅力は、そこで商業活動が行われ、おいしいものが食べられるということにある。

 貞光字町は南から北まで細長く続いている。南町、南中町、明治橋、北中町、大北町と南から北に歩くと、うだつの上がる古い建物がいまだに現役で商店として使われているのがわかるはずだ。また、昭和になって作られたであろう店舗も古くなり、美しくはないが、ここが「暮らしの場」であることを見せてくれると思う。

 さて、結局ボクが言いたいことは何なのかというと、この現役の貞光町も衰退し、長い目で見ると老衰死してしまいそうだということ。町を離れてしまった人間の無責任な言い分かもわからないが、これを救うのは国内生産業の衰退期である今日、産業招致ではなく「町としての美しさ」を産業に結びつけることだと思う。
 すなわち現役の商店街である貞光字町にもっともっと多くの人が来てくれないだろうか? 例えば国道192号線から商店街まではほんの数分の距離。京阪神や香川からドライブがてら剣山方面の美しい名勝を見て、帰り道に「うだつの上がる商店街」を歩く。商店街には無料駐車場もある。そこから、うだつを見ながらそぞろ歩き。汗をかいたら銭湯もある。お土産だって「あずまや」の金露梅、「一屋」のおいしい和菓子、阿川麹店の味噌もある。食事はなんといっても「飯田食堂」。うだつの上がる重厚な江戸時代を思わせる建物で、正統派「徳島うどん」を食べて欲しい。
 また貞光には鄙には希なことに映画館が残っているのだ。ボクが子供の頃、1960年代、1970年代はじめには加山雄三の若大将シリーズや大魔神などを見た。ここで日本映画の名作だけを連続上映する会を開く。

 久しぶりの帰郷、台風のせいであまり多くの画像を撮ってくることができなかったのだが、その画像を整理しながら改めて貞光町の魅力を思い知る。

徳島県美馬郡つるぎ町
http://www.town.tokushima-tsurugi.lg.jp/
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2007年08月11日

南町のこと01

 商店街の記憶は南町から始まる。もっとも古い記憶はたぶん幼稚園以前だと思うので1960年前後の道を通り過ぎる馬。この馬が材木かなにかを引いていた。たぶん奥で切り出された材木を運んでいたのだろう。奥と唐突に書いたが、子供の頃、皆瀬、端山、一宇(村名では「いちう」だが、普通「いっちゅう」と発音する)というのがそれにあたる。例えば「奥から出てきた」というと貞光町からみて剣山方面から町(北)に出てきたということになる。

 南町の北の境は商店街から祇園さん(八坂神社)へと西に上る細い坂道、祇園小路、南の境は田岡食堂から浦山に上る坂道までとなる。薬屋、肉屋、食料品店に酒屋、カメラ屋、クリーニング店、食堂が3軒、米屋に玩具店、電気屋に散髪屋(さんぱっちゃ)、銭湯が一軒。商店数も多く、貞光の中心からは外れるものの、賑やかなところだった。

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左手手前が金川金物店で南中町、そのとなりの松浦薬局からが南町

 商店街でのいちばん古い記憶は「貞光温泉」、すなわち「南風呂」のことだろう。自宅に風呂があったのにもかかわらず、夕方になるとつかり(入浴)に行く。この銭湯は関東の湯船がいちばん奥にあるものではなく、明らかに関西系のもの。湯船が真ん中にあり、端っこに薬湯(昔はクコ)がある。思い出すのは湯船を中心にぐるりと囲むように身体を洗う。お湯も湯船から汲んでいた。その当時、今のようにお湯と水の出る蛇口が何組か壁面に並ぶという形態であったのか思い出せない。
 女湯で祖母に抱かれて仰向けになって髪を洗ってもらっていた。となるとやはり3、4歳の頃(1960年前後)だろう。そして湯船で手ぬぐいの風船を膨らませる。魚取りの真似をする、なんていう遊びあ好きだった。

「べった(関東ではメンコ)」は「うすいのおもちゃや(臼井玩具店)」で買う。祖母が野菜などを買い求めていたのは「立道(食料品店)」。「岩井(牛乳店)」でアイスキャンデー(アイスクリームよりも、アイスキャンデーという方があたりまえだった)と牛乳を買う。「尾花(肉店)」のコロッケは初めて買ったとき10円だったと記憶する。
 食堂が3軒と書いたが、「吉田屋」はお好み焼き屋だった。店内に入ると焼き台があり、銘々にお好み焼きを焼いてくれる。子供の目で見ると店主奥さんはかなり老齢に見えた。オジサンは石を磨くのが趣味だった。貞光では吉野川の蛇紋石、茶石(茶色い石で紙ヤスリで磨くと光沢が出る)を磨くのが趣味という人が多かった。ラーメンを初めて食べたのは「みどりや(食堂)」で、確か小学校低学年のときだ。
 散髪は「玉置(理容)」だったし、薬は「松浦薬局」。

 南町の記憶は膨大で、当然個人的なものだからとりとめがない。また帰郷しても南町だけは歩きたくない、という思いもある。今回クルマで素通りするに、この多くの商店は消滅してしまっている。
posted by ぼうずコンニャク at 15:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 商店街の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月07日

南中町『福島楽器店』

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 生まれて初めて自分でシングルレコードを買ったのがここである。
 確かザ・ピーナッツの「大阪の女」(1970年)だった。なぜぜんぜん好きでもない歌手のシングルを買ったのか、どうしても思い出せない。ようするに当時はレコードというのはかなり最先端を行く代物であり、「買うだけで」ウキウキするものであった。また中学2年というとそろそろテレビのなかの女性に憧れるようになる。その初期の対象が歌手だったのだろう。
 当時ボクが熱心に聞いていた音楽はPPMだったり、姉が聞いていたエルビス・プレスリーだったり、カトリーヌ・スパークだったり、シルビー・バルタンであったと思う。姉はボクよりも6歳上であり、本棚の一角にたくさんのシングル盤をため込んでいた。その影響というものが、いちばん近所のレコード店である福島楽器店での買い物につながったようである。
 後々レコードを買うのは国金書店となる。もっと後になると西浦のレコード専門店となるが店名は忘れてしまった。
 当時、シングル盤が650円だったのではないか? 昭和45年のこの値段は今日の2千円を超えるものだと思われる。考えてみるとレコードというのはまことに高いものだった。

 1970年の福島楽器店を思い出してみよう。左手にタイルを貼った陳列ケースがある。確かここには大正琴や三味線、ギターなどが置かれていた。そして正面が引き戸、あけるとガラスケースがあり、奥に三味線や大正琴、クラシックギターがある。またガラスケースの向こうは確か畳敷きであったと記憶する。ガラスケースにはガットギター(クラシックギター)の弦、三味線の弦や撥、ハーモニカや笛が置かれていた。小学校のときに使ったソプラノのリコーダーやハーモニカもここで買ったのだろうか?
 応対してくれたのは子供心に粋な感じのする女性だった。とりとめのない文章になるけれど、そう言えばボクは中学2年のときにはギターを持っていた。禁じられた遊びくらいは「らしく」ひけた覚えがあるのだけれど、あのフレッドの浮き上がった、すぐチュウーニングの狂うギターを買ったのも福島楽器店ではなかったか?

 とりとめもなく思い出し、思い出しながらの文章を続ける。

 この店の外観は洋風である。いつ頃、建てられたものか、わからないが1960年代から1970年代でも、どこかしらモダンなものと言えそうだ。そう言えば、この木造ペンキ塗装の建物は、どこか学校を思わせる。年代は不明ながら、姉がバレーを習っている光景が記憶の片隅にある。そのバレー教室はどこだったのだろう? 福島楽器店の二階ではなかったか。画像の右手に入り口があって奥に進むと二階への階段がある。そこを祖母と姉についてのぼったのではかなったろうか。
 昭和39(1964)年の商店街地図では、福島楽器店の南半分は『タミ美容』となっている。今の外観からも美容室らしい雰囲気が残っている。
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2007年08月06日

貞光川の「かんのう」

 1960年代、ボクがまだ川遊びを始めたばかりの頃。川を前に子供は大人からいろんなことを教わるのだ。そのひとつが「かんのう」である。「かんのう」は貞光での川遊びではもっとも安全だとされた、すなわち初心者的な場所、土居の岸、そしてその上流へ八幡橋の上手まで。また土居の岸から下流、その昔、自動車教習所のあった場所あたりまで続いていた。
 貞光をめぐる唯一の一般書である『貞光町風土記』(柳川武夫)には「護岸の基礎工事に川底へ松の丸太を打ち込み、枠組の中へ大きな石を詰め込み、洪水止めにした」、「貞光川の護岸工事(土居の岸から溜まで)は百年前にできたもの」、「古くは護岸のことをカンノウ(灌能)(勧農)といっていた」という。百年前というと本書がでたのが1983年であるから1870年〜1880年代として明治初期のものだと言えそうだ。

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土居の岸のすぐ下流

 どうして子供達が「かんのう」を教わるのかというと土居の岸では「かんのう」の中は浅く、外はぐっと深みになっているせいである。たぶんやっと川遊びのできるようになった子供は、浅い「かんのう」の上でいるように言われた記憶がある。「かんのう」の上というのはカワニナが無数に這っているだけで小さい子供にもつまらないところだった。
 もっと長じてくると、「かんのう」は魚取りのめぼしいポイントでもあった。「かんのう」の中に一本バリに鯖虫(主に「いずみ(現泉釣具店)」で買っていた。ハエのウジ、関東での“サシ”)をつけて放り込むと、大きな「どぶろく(ヌマチチブ)」がいくらでも釣れた。ほかにはウナギ、「ぎぎ(ギギ)」が釣れる。また「かんのう」の杭にはたくさんのエビがついていたのを思い出す。このエビの種類がわからない。
 1960年代から70年代、貞光の川にはたくさんの生き物と魚がいたのである。その再生産にもっとも寄与していたのが「かんのう」であると思うのである。

 この「かんのう」、今では見る影もない。貞光川は無残にもコンクリートで固められて、川底には大量の土砂が堆積している。2005年に帰郷した際に「長橋(潜水橋)」の上手で「かんのう」の痕跡を発見した。それは歳月にやせて細くなった杭の頭であり、「かんのう」の石組みは判然としない。

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岸辺にやせ細った杭が見える。これが岸近くの丸太止めの杭、ここから2メートルほど大きな石が置かれていて、流れ側にも丸太止めの杭があるはずなのだ

 しかし「かんのう」の杭がまだあるということは、大量の土砂を除けば、荒廃して、生き物が少なくなってしまった川が蘇る可能性があるということだ。なんとかしてこの土砂を取り除き、その昔の貞光川にもどせないのだろうか?
posted by ぼうずコンニャク at 10:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 貞光川/小川 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする