2009年06月28日

まだバスは走っているのだ

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 南中町の一番北にあるのが1964(昭和39)年時、町史の地図でみると『立道たねもの店』だ。
 この北側にだれも橋だと思っていない、目に見えぬ明治橋がある。
 ここより北が地名でも明治橋となる。
 この店の前でいつも2,3人、バスを待つ人がいた。
 『立道たねもの店』は今(2009年)も健在で、そして今でも店の前には小さな停留所標識が立っている。
 まだバスは一宇の方に通っているんだろうか?
 5月には希な暑いくらいのなかを、北に向かって通りを歩いていると、バスがボクの疑問に応えるようにやって来た。
「徳バスまだ走っていたんだ」と思ったら“四国交通”とある。

 小さな頃、ボクは母親が病気がちだったために、東浦の森さんという家庭に昼間預けられていた。
 その森の父ちゃん(当時はそう呼んでいた)が“徳バス”の運転手だったのだ。
 残念ながら“徳バス”にはほとんど乗ったことがない。
 それこそ数えるくらい。
 剣山に登りに行くときくらいだから2、3回だろう。
 ただ、モヤモヤとした“徳バス”の記憶があって、ほとんど貸し切りのような状態で森の母ちゃんと父ちゃん、そしてみよちゃん、ちかちゃんで奥(端山方面)に行った。
 川原でお弁当を食べて帰ってきた、その川原の情景も白いモヤモヤのなかにある。
 あれは夢だったんだろうか?

 バスの運転手さんは若い女性だった。
 運転席の前に「つづろお堂」の文字がある。
 そう言えば、昔からバスの行き先は「つづろお堂」だった。
 「剣橋」というのもあったはずで、どちらからも剣山登山口までは、まだまだ遠い。
 そこから先へはどうやって行ったのだろう?
 まったく思い出せない。
posted by ぼうずコンニャク at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月23日

牛市のあったところ

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 いつの間にか民家が建ってしまっている。
 ここには昔、牛市があった。
 小学校の頃、たぶん低学年だったのだろう。
 窓から見るともなく見ると、たくさんの牛が、ここに集まっていた。
 広い土の地面にわらが散乱して、牛がテンデンバラバラに人に引かれている。
 はっきりとは思い出せないのだが、この場所が黒く見えるほどに牛はいたはずで、普段は黒い地面ばかりなのに、不思議な光景を見るような。
 この手前にある場所に、よどんだ池があり、その右手前が墓地。
 カメラを構えている背後に小学校がある。
 当時はクリーム色のペンキに塗られた校舎で、ここに便所があった。
 その当時牛市はありふれた光景だったのだろうか?
 今ではまったく思い出せない。
 正面左の坂道を上ると、墓地が続いている。
posted by ぼうずコンニャク at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月22日

ここには昔、中学校があった

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 何年ぶりだろう。貞光小学校に行ってみる。
 ただ通り過ぎただけだけど、変わり様にビックリする。
 ボクが小学校に通ったのが、1962年から1968年だったはず。
 このあたり計算するのが煩わしい。

 姉は6歳上で、ボクが一年生として入学したとき中学1年生だった。
 この姉が通っていたのが、正面に見える乳白色の建物の場所にあった中学校だった。
 黒っぽく細長い建物で屋根はスレート葺き、二棟並んでいたように記憶するが、定かではない。

 ボクが通っていたのは貞光川沿いのコンクリートの中学校。
 端山村や太田などの中学と統合されて、手狭になったために移転したのだろう。
 我が家では姉だけが通った校舎だ。
 姉にいわせると、まことに環境がよく、勉強しやすかったとのこと。
 手前のプール側にも木造校舎があって、本来は中学校のものだったように記憶している。
 後には卓球場とか体育館的な使われ方をしていた。
 校舎の前にはポプラの木。

 中学校が西山にへばりつくようにあったことなど、今では知る人も少ないだろう。
posted by ぼうずコンニャク at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月13日

貞光に帰る

 5月15日、16日、17日と故郷に帰る。
 ただし15日は昼過ぎに帰り着き、そのまま穴吹に向かい。
 翌16日は法事。
 夕方帰宅して、夜、できれば友人達に会いたい。
 でもむりかな。
 17日は島根県県水産アドバイザーの仕事で島根県松江に移動しなければならない。
 できれば町を歩いて、できるだけ写真を撮ってきたいものだが、難しいかな。
posted by ぼうずコンニャク at 21:42| Comment(1) | TrackBack(0) | ぼうずコンニャクのいいわけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月04日

田岡屋食堂と浦山に続く坂道

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 南町の南、大南町との境にあるのが田岡屋食堂だ。
 このあたりは大北町、北中町、明治橋、南町と続いて、なんだか町はずれという感じがした。
 でもどこか賑やかな場所の名残があった。

 例えば、阿波踊りがあって、その終点でもあり、南町の連はここで集まり、ここで散会する。
 そういえば、ここで阿波踊りの練習とか、子供に踊らせて「うまいへた」を評価したりしたのではないだろうか?
 ちなみにボクは阿波踊りが下手だったし、引っ込み思案で写真に写るのさえいやだったのだ。

 賑わった気配のある手前の道路は広い。
 広い道路の手前奥に専売公社。
 専売公社は貞光の町に繁栄をもたらした。
 この手前の道路左専売公社前に、澄屋旅館があり、また鍛冶屋さんがあったと記憶する。
 その反対側の記憶がない。

 さて、田岡食堂がここにある理由はなんだろうか?
 子供の頃、ここが剣山に向かうバスの停留所であった。
 でも、それにしては、ボクが子供の頃にはすでに町はずれであるように思えた。
 実は古くは、貞光から端山、一宇村に向かう道は、この坂道だったためだ。
 この田岡屋食堂から左(南)に行く道がボクの子供の頃にはすでに端山、一宇村への道だった。
 それ以前は、この坂道を浦山に上がり、尾根道沿いに一宇まで繋がっていたのだ。
 古い記憶だが、馬が橇を引いて奥(剣山方面から)材木を運んでいた、そんな映像が脳裏に浮かぶ。
 橇だったのか、馬車だったのか判然としないのだけど、とにかく馬を見ている。

 貞光の繁栄が端山、一宇村の葉煙草栽培にあったとすると、まさにここは江戸時代から貞光を支えた十字路だったわけだ。

 昭和31年(1956)生まれのボクにとって、この十字路が賑やかだった記憶はない。
 岡田屋食堂に入った記憶もない。
 ここにボクより年下の女の子と、たしか兄と同級生の男性がいたはずだ。
 今はどうなっているのだろう?
参考/『貞光風土記』(柳川武夫 教育出版センター)
posted by ぼうずコンニャク at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月15日

ごめんなさい

吉野川さん、三好家臣団さん、返信できなくて申し訳ありません。
なかなかブログの更新もままなりません。
でも5月には帰郷して、また貞光のあれこれを撮影してきたいと思っています。
posted by ぼうずコンニャク at 11:24| Comment(0) | TrackBack(0) | ぼうずコンニャクのいいわけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

栗尾商店から南

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 なんとなく心にわだかまる一角というのがあり、栗尾商店のあるT字路などはその最たるもの。
 貞光の家並みは吉野川から南へ、剣山に向かって伸びている。
 その中ほどに明治橋があり、部落名も明治橋なのである。
 小学校にあがったとき、この奥からランドセルを背負い、栗尾商店の角を左に(西に)曲がる。
 ボクは和子ちゃんと敬子ちゃんという同級生と通っていて、なんだか恥ずかしいやら、気が動転して舞い上がるような初登校だったはず。

 このとき同級生の大谷一雄はどこにいたのだろう?
 昨年3月、隠岐島後で会ったとき(今では隠岐水産高校の教師)、聞いておけばよかった。
 現在ボクは島根県のアドバイザーをやっている、また大谷一雄に会えそうでもある。
 今年はちゃんと聞こう。
 鶴野は、槌谷は、そうだ今度、小学校初登校の話を聞いてみたいものだ。

 ボクの、このときのランドセルはどこで買ったのだろう。
 中学校の鞄は間違いなく、栗尾商店の南、数軒先にあった真鍋カバン洋傘店で買っている。
 このときの記憶ははっきりしていて、父親に鞄を買ってくるように言われて、とぼとぼと夕暮れ時を歩いた。
 この一角はまことに賑やかで福島楽器店から明治橋を渡る(橋らしいものはない)と煌々と灯りともる果物屋(昭和39年地図を見ると橋本青果店)。
 この前でばあちゃん(祖母)に季節になると「ハタンキョウこうて(買って)」とせがんだ。
 「すいからたべんで(酸っぱいから食べないのに)」と、これまたいつも言われていたような。
 その前が美馬生必(今で言う食料品スーパー)、武田のお菓子屋さんがあり、右手に天神屋食堂、三崎鮮魚店、千代の家(かき氷などもあった食堂)。
 真鍋カバン洋傘店は品のいいオジサンとオバサンがいた記憶があり、やはりここも古い建物で、まさに商家そのもの。
 奥の方から鞄を持ってきて、「布と革どっちがええんじゃ」と聞かれて「革がええ」と言った覚えがある。

 カバン屋の隣が井上洋装店。
 外から見るこの店が、例えばモダンとかハイカラとか言えばいいのだろうか、なんだか小学生・中学生には夢の世界のようだった。

 さて栗尾商店で思い出すのは祖母が養命酒を買っていたこと。
 後に「金陵」という最中を発売したことだろう。

 西に曲がると、庚申通になる。
 今、歩くと当時の我が家から南中町、明治橋、庚申通と歩いて小学校はほんの目と鼻の先だ。
 それが遠く遠く感じられた。
 敬子さん、和子さんは明らかにボクの初恋の人で、道すがら誰かに「女のなかに男がひとり」と言われて、縮み上がるほど恥ずかしい思いをした。
 翌日から、ボクは一人で祇園小路を駆け上がり、小学校に通い始めたのだ。
posted by ぼうずコンニャク at 11:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月29日

南中町『一屋』の金つば

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左から『一屋』の旧店舗、真ん中が永尾米店、右が新店舗で昔は履き物屋だった

 初っぱなから寄り道すると、「きんつば」という和菓子は江戸時代に生まれた。漢字で書くと「金鍔」。刀の鍔のような形をした和菓子という意味合い。同じく「銀鍔」という和菓子もあったとのこと。「鍔に似ている」くらいだから形は楕円形ということになる。でもボクが1960年代はじめに『一屋』で生まれて初めて食べた「金つば」は上から見ると真四角、横から見ると長方形だった。「金つば」が真四角になったのは確か明治か江戸の後期。餡を練り、丸く作り、小麦粉の溶いたものをくるめて焼くという本来の形よりも、大きな型枠に葛などを入れた練り餡を流し込み、四角く切ってか6方を焼く方が大量生産できるということで現在の「金つば」の形になったという。関東では今でも丸く平べったい蒸し「金つば」が残っている。

 話をやっとこさ『一屋(かずや)』にもどすとする。さて、ボクが物心ついた頃、1960年前後に『一屋』は開店したはずだ。確か店主の平井さんは猿飼か端山の人。町史の昭和39年(1964年)の街並み地図にはしっかり『一屋』が記載されている。
 子供心に『一屋』の店先は夢のような空間だった。入って右手にガラスケースがある。そのケースの上には市販のチョコレートやガム。奥には「お嫁さんの菓子」や砂糖(花や魚を形作っている)があったと記憶する。1960年代というのは新しい銘柄のチョコレートやガムがどんどん誕生した時代。ロッテの「ラミー」、不二屋の「ルック」、「チョコボール」に「プリッツ」。ロッテのペパーミントガムや懐かしい「渡辺のジュースの素」というのもある。特に「渡辺のジュースの素」は『一屋』で買ったのが最初だったはず。

 そのガラスケースの向こうに、当時まだ若くてきれいな女将さんいた。いつもは奥にいるオジサン(平井一彦さん)も優しい人であったなー。祖母とまんじゅう(和菓子)を買いに行く。当然、ひとりに一つずつなので、そのひとときが真剣そのもの。ちなみに当時のボクの夢というか願望が「『一屋』のまんじゅうを腹一杯食べる」ことだった。
「吹雪き」「金つば」、柿の形をしたもの、茶色いまんじゅう、白いまんじゅう。ボクがいちばん好きなのが何と言っても「金つば」であり、次に好きなのが柿の形をしたものだった。春には道明寺の桜餅があって、東京に出る前は「桜餅」=「道明寺」だった。また柏餅というのは『一屋』ではサルトリイバラの葉のもの。これなど貞光町全体が「柏餅」はサルトリイバラで作るものだったから気にもかけなかった。
 そう言えば「鹿子」という真ん中が漉し餡、回りが粒あんを葛などで丸くしたものもあり、こればっかり買っていた時期もあった。まんじゅう以外では夏場の「わらび餅」も懐かしい。透明なビニールに入っていて黄粉の小袋が1つつく。この黄粉の袋をなんとか余分にもらいたいな、と思っていた。

 今回の帰郷で、それこそ何十年か振りに『一屋』でまんじゅうを買った。店舗は昔の場所ではなく、永尾米店の南側。子供の頃には真鍋履物店のあった場所に移転していた。この真鍋履物店にはボクより2歳年少の男の子がいたはずだ。永尾米店は子供の頃から米屋というよりも、デッカイ仕舞た屋風。重厚感のある近寄りがたい家だった。

 久しぶりの『一屋』、店にはいると、若い女将さん。これは2代目の奥さんであるようだ。そして奥から懐かしいオバサンが出てきてくれた。やっぱり奥では今まだ現役のオジサンが和菓子を作っているという。
 懐かしい顔に出会えて、子供の頃に立ち戻ってしまいそうだ。そしてガラスケースに探したのが、真四角の「金つば」。それがこの日品切れであった。『一屋』の店先に立ったときから、心の中で「金つば、金つば」と称えていたので、落胆は大きい。仕方なくボクは吹雪き、まんじゅう好きの太郎は栗まんじゅうと白いまんじゅう。

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 この吹雪とまんじゅうを町歩きの最中に、また飯田屋に入って、うどんが来る間に食べたが「やっぱりうまい」。しかしなんとしても悔しいのが『一屋』の「金つば」を食べられなかったことだ。父も老齢だし、また近い内に貞光に帰ってくるだろう。そのときこそ太郎と「金つば」を5つも6つも食ってやる。

 店の隅を見ていると子供の頃「嫁さん菓子」と言っていたと記憶する。平べったい砂糖味の菓子があった。これも懐かしいな。記憶が正しいとすると結婚式などに使われたものだろうか?

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この菓子は懐かしい。「嫁はん菓子」「嫁さん菓子」と言っていたが正式名がわからない

 話は1970年代半ばに移る。この当時、『一屋』で買っていたのがコカコーラの1リットル瓶である。これも懐かしい。これを買い込んで、同級生とボクの部屋に集まっては騒いでいた。今は島根県で水産高校の教師をしているカンイチ、ヒゲ、鶴野、美馬町(現美馬市)の藤本勝紀。何をやっていたかというと、当時のヒット曲「あなた」のレコードをかける。それに合わせて銘々が歌うのだ。その歌声を録音して聞くという遊びである。レコードに合わせて歌っていると、なぜだか歌がとてもうまく歌えている気がする。でもそれを改めて5インチのテープレコードで聞き直すと、恐るべきヘタクソ振りなのだ。このバカ騒ぎを勉強しながら寂しく聞いていたのが隣の阿佐のテッチャンである。まあテッチャンは東京理科大、ボクは一浪して中央大学という差はここに生まれたんですな。

一屋(かずや) 徳島県美馬郡つるぎ町貞光字町9
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2007年08月26日

祇園さんから下る坂

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 祇園さん(八坂神社)は子供の頃(1950年代の末から1960年代の初め)遊び場のひとつ。そこから町へ下る坂である祇園小路は小学校からの帰り道でもあった。左手が織本屋の塀、正面に見えるのが阿佐商店の倉庫だと思う。手前右はその昔、本木という家で乳牛を飼って、牛乳販売をしていた。
 左手に長く続く織本屋の塀は白壁に平瓦葺き。塀に沿ってやや深い溝があった。溝と言うよりも祇園さんへ続く坂道が実は盛り土されて出来たものかも知れない。

 この道で思い出すのは祇園さんのお祭り(季節も、何月にあったのかも忘れている)のときのこと。境内を目差す人でごった返していた。でも今、改めてこの道を見るとなんとも狭い細長い坂道であることか。
 祇園さんのお祭りには、境内だけではなく、手前にある黒住教、地蔵堂の広場、町に下って織本屋、谷医院のあたりまで屋台店が並んだ。思い出すのは黒住教の前当たりに毎年のようにパチンコ台が並んでいたこと。

 この本木(間違っているかも)にはボクよりも年長の男ばかりの兄弟がいた。一番下の子でもボクよりも5歳くらいは上だったはず。よく山に連れて行ってくれて、「おべん(アケビの実)」を取ってくれた。また驚くほど木登りが上手で西山の谷(地図を見ると南谷川)の斜面の突出して高い木に上り、クマゼミを手で捕まえたのを記憶している。

 この坂道ではよく遊んだ。坂道のいちばん上から三輪車、二輪の子供用自転車で一気に下りる。確か一緒に下っていた子が織本屋の溝に落ちた。誰だったろう、思い出せない。
 四国とはいえ、冬には雪が積もることもある。そんなとこには「きんま(木馬 木で作った橇)で下った。でも冬でもあまり気温が下がらないので、なかなか滑るという具合にはいかなかったな。

 正面に見えるのが東山(ひがっしゃま)である。そう言えば東山という名の山なのだろうか?
posted by ぼうずコンニャク at 17:42| Comment(4) | TrackBack(0) | 路地の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月22日

どんがんは元気だろうか?

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 帰郷した日は梅雨、しかも台風4号直撃ということで小川(こがわ 貞光川)は増水していた。「水が出た」といっても昔のことを考えると微々たるもの。潜水橋の脚の5分の一ほどの水かさで、もともと土砂がたまった状態のため川としては通常の状態になったといったものだった。
 画像の橋が潜水橋。貞光では「長橋(ながばし)」と言う。洪水のときにはこの橋の道路面まで水が上がり、それこそ橋が沈みそうになったこともある。

 そうだ、その昔、小川は水量豊かなきれいな流れであった。そんな流れの淵に住んでいるのが“どんがん”だ。
 ボクはまだ“どんがん”には合った(会った?)ことがない。また写真、絵なども見たことがなく、いかなる生物なのか見当もつかない。
“どんがん”が言葉だけで登場するのはお盆と川が増水したときだ。
 川が氾濫すると、災害などを心配するとともに、町の魚取りたちは勇立つ。大きな網を肩に担いで、流れのところどころにある湾のような水のゆるむ場所、谷の流れこみをすくっていく。すると普段はなかなかすくえないアユやウグイ、ウナギなどがごっそりとれるのだ。ボクも子供ながらにこれをやってみたくて仕方がない。それにすくっているところを見ているだけでもワクワクする。
 大雨が来て、そろそろ川が泥濁りになっているだろうとゾウリを履いて飛び出していく。
 それを見ている祖母が必ず言うせりふが
「こんな大水のときに川にいったら“どんがん”にとられるぞ」
 というものだった。
 またお盆のときにも
「地獄の釜があいとる。“どんがん”もおるんでよ。尻食われるきん、川にいったらいかん」
 なんて言われたものだ。

 この言葉だけの未知の生物“どんがん”、今でも元気だろうか? 誰も小川がこれほど荒廃するとは思っていなかっただろう。いまでも淵として残っているところはあるのだろうか? 例えば「奥がん」とか「下がん」とか。
 そう言えば、この淵の名前にも「がん」がつく。この「がん」が「丸」だとしたら、水底が丸くえぐれて深くなったところ、淵となる。また「どん」が副詞的な言葉だとしたら「どんと深くなった淵(がん)」ともとれる。このあたり徳島の民俗学者に問いたい気がする。

 大人になって“どんがん”は河童かも知れないと思うようになった。河童とは中国の河伯などが我が国に伝来して土地土地で変化したもの。ある一定のイメージがある。でも“どんがん”にはそんなものがいっさいないのだ。今では“どんがん”は河童とはまったく違った生物だと思っている。
 また“どんがん”が「山で子供をさらうおとろしい妖怪」であると香川「みとよの方言」にある。とすると貞光固有の言葉ではないということだ。
「みとよの方言」
http://www.netwave.or.jp/~fujimaru/uttkari/mitoyo-db/hougen2.htm

 子供の頃、川で死ぬ子供は少なくなかった。夏休み明けには「●●君が変電所のところで心臓麻痺で死にました」とか「大川で流された」とか、「長橋の上でカミナリに打たれて死んだ」、とか聞かされたものだ。思い出すのは小学校で夏になる前に一本松の淵で水泳訓練のようなことをやる。確か三年のときに同級生が岩から飛び込んで浮いてこなかった。この子の名前を忘れてしまったが、田岡の食堂から浦山に上る坂の途中の長屋のような建物に住んでいた。小柄な子だった。この子も“どんがん”にさらわれたのだろうか。
posted by ぼうずコンニャク at 11:08| Comment(5) | TrackBack(0) | 貞光川/小川 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする