2010年10月15日

小学校の東にあるお堂

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ボクは小学校に入った途端に劣等生になった。
友人の鶴野、槌谷にもなんども、「お前はホンマにいかんやつじゃった」と帰郷するたびに言われている。
その劣等感を深く深く感じたのが、小学校のいちばん北にある校舎にいたとき。
校舎の廊下の1階突き当たりに扉があり、開けると正面に見えるのが、このお堂。
いったいこれはなんなんだろう?
小学校一の劣等生は思うのだ。
それは1965年、もしくは1966年のことだった。

「本家 阿波おんな」もよろしく!
http://ameblo.jp/honkeawaonna/
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2010年05月03日

塾のあったところ

明治橋、武田人形店の角を東に入る。
ほどなく暗い路地の左手にお好み焼き屋さんがあった。
この独特の崩し字がよめなくて「おぬやき」と読んでしまっていたのが、懐かしい。
ここには一度も入っていない。
そう言えば、お好み焼き屋というのは子供にとって、ある意味縄張りのようなものだった。

その先を右手(南)に折れると左手にそろばん塾、右手に習字の塾があった。
そろばん塾の長屋のような茶褐色の長い二階建ては、今でもそのまま残っている。
ボクはどちらにも通っていた経験があるが、どちらも長続きしなかった。

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特にそろばん塾はまったくだめ。
確か5級から始めて、それ以上にはぜんぜん進めなかった。
同級生の石本さんという女の子は、そのときすでに2級だったと記憶する。
2級には暗算という、とてもボクには届かない世界があったと記憶する。
石本さん、すごいなー、とただただ素直に驚いていたのだったなー。
あっという間にそろばん塾をやめて、すぐに習字の塾に通ったと記憶する。

画像の階段を上ると習字の塾。
今は建物すらなく、そう言えば、この路地全体が明るくなった。
それでいて昼間なのに生活の臭い、人の気配がなく、なんだかさびしい空間となっている。

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ここには小学生のボクから見て、かなりのおじいさんに思えた先生がいた。
二階建ての、二階が塾。
階段を上ると、ぷーーんと墨汁の匂いがした。
手本を見て、字を書く、それに先生が赤い色でなぞって直してくれる。
先生の前には円筒形の湯飲み、たぶん煙草の臭いがしていたような。
「元気よく書きなさい」
という意味合いのことを言われた記憶があるが、それ以上はあまり覚えていない。
ほどなくここも通うのがイヤになってやめてしまった。

まことに子供の頃からダメな私であった。
posted by ぼうずコンニャク at 21:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月31日

干しいもと小豆のたいたもの

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美馬市ふれあい市場であまりに懐かしいので買ってしまった。
干しいもと小豆を甘くたいた素朴な料理。
和食の世界ではリュウキイモ(琉球いも サツマイモ)と小豆をたいたものを、いとこ煮というのだけれど。
貞光、美馬ではなんというのだろう。

子供の頃、ばあちゃんがときどき作ってくれたっけ。
意外に日常的なもので、祭などに作ったことはなかったように思う。
これがこれが、大好きで、それなのにあんまりたくさん食べられなかった。
posted by ぼうずコンニャク at 22:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 貞光の料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月20日

長橋から東浦南を見る

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ボクは幼稚園の頃まで(1960年代始め)、画像右二階建てのベージュの建物奥にあった町民住宅、森家へ子守に預けられていた。
森家での暮らしが楽しくて楽しくて、自宅に帰るのがイヤだった。
当時、母親が病気がちだったためか、子供の頃の思い出はこの森家の川縁でのことの方が多い。
このあたりを東浦南という。

洋館があって、手前に小さな谷がある。
ここには今も変わらず青石の橋がかかっている。
その手前に草ボウボウとして荒れ果てているのが、ボクの母方の臼井家一族の土地であった。
ここには藁屋根の民家が二棟あった。
一方の家に米を持って行くと「パットライス(ばくだん菓子)」にしてくれた。
「パットライス」は好きだったが、あの大砲のようなものが突然バンと炸裂するのが怖かった。
だから、この家の前を通らないように、遠回りして歩いたことが何度もある。

奥には祖母のしゃえんじ(漢字は不明)があった。
二度イモ(ジャガイモ)、りゅうきいも(琉球薯 サツマイモ)、チシャなどを作っていた。
子供の頃よく祖母にくっついてきて手伝いをしたものだ。

東浦で思い出すことは多い。
例えば子供たちが野球チームを作っていた。
東浦南と北でチームが2つ。
確か、南が「東浦ジャイアンツ」で北が「東浦タイガース」ではなかったか。
貞光の子供たちはどちらかというと阪神ファンが多かったように思うがいかがだろう。
posted by ぼうずコンニャク at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月13日

ハエ取り瓶

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師走に入っての帰郷は大変だった。
いろいろありすぎて、疲れ果てた。
とても帰宅する気になれず、徳島市内で無駄歩きをした。
(無駄歩きとは目的のない歩きという意味ではなく、目的はあるのだけど当てのない歩きという意味)

市内両国から幸町、中洲を散策。
思わぬものが目に飛び込んできた。
なんと「ハエ取り瓶」じゃないだろうか?
形がいびつで、子供の頃に持っていたものとは違っているが、全体の構造などはまったく同じだ。
いきなりだけど、その店に飛び込んで撮影させてもらった。
この店が幸町の伊藤硝子店という。

窓際に置かれていたのは、びん漬けの瓶、ハエ取り瓶、硝子の金魚鉢。
実はびん漬けの瓶は初めて見たが、「ハエ取り瓶」はやっぱり「ハエ取り瓶」であった。
「昔は職人さんがようけおって、技術があったんじゃな。もっときれいで丸かった」
この頃、珍しい懐かしいといって、訪ねて来る人もいるという。

さて、この円形のハエ取り瓶。
縁の中央部が内側に穴が開いていて、その内側が漏斗(じょうご)のようにややめくれている。
反対側(上側)にも穴が開き、これは上側にしぼんで出ている。
この下側の穴のめくれた内側に、米糠(こめぬか)、みそ、サナギ粉などを練ったものを塗りつけて川のよどみなどに置くのだ。

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エサの匂いに主にジャコ(オイカワ)、ヤマトバイ(カワムツ)などが寄ってくる。
それが内側、川の流れに口を向けている穴に入り、比較的外に出られなくなる。
上側は川の底になり、ここからも出られないわけで、瓶を漬ける場所によっては大量に魚がとれる。

ただボクの見る限り、とれる魚はあまり食べてうまそうなものではなかった。
ボクも一時期、この魚取りに夢中になったが、どうにもへたくそで、あまりたくさん魚はとれなかった。

もう遠い昔のことだけど長橋(潜水橋)のすぐ下手にハエ取り瓶が置かれていた。
少しずつ溶け出す練り餌にたくさんのジャコが寄っている。
瓶のなかは魚であふれかえっていたのだ。
仕掛けた子供たちは、貞光川西岸の長橋から北に下る坂でうれしそうに見ていた。
この西岸護岸にはイタンポ(イタドリ)、イバラ、スミレなどいろんな植物が生えていた。
その下に下水の吐き出し口があって、普段から魚の多い場所だった。

本当にうらやましかったのだが、あれはもう遙か40年も前のことになる。

伊藤硝子店の皆様、突然入って、写真まで撮らせていただきました。
ありがとうございました。

伊藤硝子店
徳島県徳島市幸町3丁目15
posted by ぼうずコンニャク at 09:55| Comment(1) | TrackBack(0) | 貞光川/小川 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月12日

「すけない」は「少ない」

貞光では往々にして「少ない」とは言わない。
主に「すけないな」という。
つるぎ町役場で若いお母さんがケータイで「今日はすけないんでよ」。
いったい何が「すけない」のかな。
posted by ぼうずコンニャク at 14:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 貞光弁辞典 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月23日

「やりこい」は柔らかい

貞光で数日暮らす。
明治橋『飯田食堂』に行く。
おばあちゃんが、おかずの並ぶ棚にあった、ゆでた鶏を持って「やりこいで?」と聞いたのだ。
「やりこい」は「柔らかい」なのだ。

おばあちゃん 「(この鶏)やりこいでー(?)」
飯田食堂のおばあちゃん 「やりこいよ」
posted by ぼうずコンニャク at 05:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 貞光弁辞典 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月12日

焼場から下る道 01

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ボクが焼場(火葬場)を知ったのは小学校に上がる前。
それは町と吉野川を縁取る孟宗竹の林の間、田や畑の中にあった。

貞光川は剣山から山と山の間を縫うように北に流れ落ちて、吉野川に合流する。
河口には大きな三角州ができて、左岸を「島(しま)」といった。
貞光川の左岸は吉野川に近づくにしたがって、土地が低くなる。
低地にある「島」は有名な暴れ川である吉野川の氾濫に、たびたび見舞われた。
その氾濫から「しま」を守っていたのが江戸時代にできた土手と、孟宗竹の林なのだ。
注/『貞光風土記』(柳川武夫 教育出版センター)には孟宗竹ではなくマダケとある。竹林には孟宗竹が植わっていたように記憶するが、マダケもあったのだろうか?
孟宗竹は吉野川のほとりにあり、流れ来る有機質を吸って、みごとに太く、清潔、静謐な空間を作っていた。
この空間を小学生のボクは、級友の藤、鶴野としばしば歩いたものだ。

焼場は「島」の一角にあった。
その建物は、幼稚園児のボクにとっても小さく感じられた。
焼場の後ろには竹林が迫っていたように記憶するが、定かではない。
今の地図を見ると、大須賀という地区で、道の駅「ゆうゆう館」の南側ではないだろうか?

ここで母を焼いたのだ。
その日の天候はわからない。
煙突からあがる煙、親戚のお兄さんに抱かれ、母の煙が天に昇るのを見た。
煙はまっすぐ空に上っていく。
焼場の炉の裏側から母が焼かれる火を見た。
それはただただ炎だった。

まだ幼児であったボクにとって、母の死は衝撃であって、恐怖であって、意味のわからないことであって、その悲しみはすぐに来て、すぐに去っていった。
こんなことを思い出していると、あれはもう45年も前のことなのか、と感慨深い。
posted by ぼうずコンニャク at 09:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月25日

変電所の淵が怖かった 01

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貞光川河口近くに変電所がある。
1960年代、ここは深い淵の連続であって、例えば上流から川を下ってくると、子供のとってここに入る勇気があるかどうか? 関所(乗り越えがたい)のようだった。
上流からくると、貞光川下流の中学校から、自動車学校あたりは穏やかであって、葦(ヨシかアシかわからない)の生える護岸があった。
そういえば護岸には必ずネコヤナギが見られた。
根は水の中まで伸びており、そこにイダ(ウグイ)、ヤマトバイ(カワムツ)がひそんでいた。

変電所の深い淵までは瀬であってエッシュウ(カマツカ)がいた。
そして変電所前の岩場があって深い深い淵がつながっていたのだ。

東の陸(おか)にあがると上流から、竹をかき分けて進むことになる。
竹と野バラがあって、子供はたいていここで手痛い目にあったのだった。
竹をかき分けて進むに左手に貞光川、変電所前に畑がある。
川岸には青石があり、貞光橋に至って、その下流まで子供心にも恐怖感で震え上がるほどの深みだった。

この貞光川東岸変電所前の深いことは子供にとって脅威だった。
川が濃緑色で底が見えなかった。
その名も「変電所」と言えば川の淵の名称であったのだ。

ちょっと上流の竹やぶをかき分けてみた川のやや浅い淵。
水底に巨大な(大きな)イダが悠然と泳いでいた。

1960年代、ここで泳げて、青石の上から淵に飛び込めるというのは、子供にとってあこがれだった。

そういえば、小学生の頃、この変電所の川で心臓マヒでお亡くなりになった青年(もしくは子供)がいたという。
たしか朝礼(小学校の朝の会で外で行われた)で言われた気がする。

さて、現在の変電所には淵という深みがない。
ここで国土交通省に文句を言うつもりはないが、君たち(国土交通省の役人)、一人一人は優れたいい人かも知れぬ。
でもこのみすぼらしさを見よ、と言いたいね。
posted by ぼうずコンニャク at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 貞光川/小川 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月20日

藤田商店では、お好み焼きを食べた

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 南中町、阿川酒造と郡さん(洋品店だった。ボクはここのお兄さんと山に三つ葉を取りに行ったことがある)の間を東に路地が通じている。
 入って、阿川酒造の壁の反対側に同級生、野木の家があり、その隣が確か東出商店と言わなかっただろうか? 飲み物や酒、食料品を売っていたのだ。
 そこを過ぎると、南から路地が合流してくる。そのまま東に歩いて行くと、左手に駄菓子屋のようなお好み焼き屋さんであるような店があった。店の名を知らなかったのが、今回以前のまま残っているのを発見、「藤田商店」だというのを知ったのだ。

 ボクの記憶が正しければ、たぶん1960年代初め頃、この店で一度だけ、お好み焼きを食べている。
 当時いちばん安いのは溶いた小麦粉にキャベツ、たぶん天かすなんかが入っただけのもの。
 このとき誰と一緒にいたのだろう? まだ小さかったはずだから一人では、ここまで来てお好み焼きを食べることなどできるはずもない。
 そのとき誰かが言った言葉を覚えている。
「卵入ったのは高いんじゃ」
 このとき初めて「卵入りのお好み焼きが高い」ということを知ったのだ。
posted by ぼうずコンニャク at 17:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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