おいのこはん

 かどや食品(徳島県美馬市美馬町露口)の「おいのこはん菓子(亥の子菓子)」だ。たしか小学校下の道にあった『藤本製菓』でも作って売っていたはず。  これは徳島市内とか南部では見ていない。吉野川流域の徳島県西部のものかも。  子どもの頃、食べもしないで「指を入れて指輪」なんてやっていたけど、今のは子どもの指すら入らない。  記憶の底の方に、たぶん亥の子の日(旧暦の10月、最初の亥の日)…

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「おみーさん」のこと

貞光町の町屋で暮らして、もっともなじみ深い味が「みそ」だろう。 東京の雑煮はすまし仕立てだが、貞光ではみそ仕立てだった。 そして徳島県全体を見回して、もっとも代表的なみそが「御膳みそ」で、 これを鑑み、蜂須賀家が美濃尾張から来たために 徳島にみそ文化が育ったなどという説があるがいかがなものだろう。 貞光にはまだ麹屋さんが残っている。 どなたか貞光で民俗学的なフィールドワークを…

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「そろ」を見つけた

ボクが小学生の時に魚取りに使っていた「そろ」を見つけた。 大分県の山の中、もと天領であった日田市豆田の雑貨屋さんを除くと いきなりこれが目に飛び込んできたのだ。 当地ではこれを「えびしょうけ」というのだという。 なぜこれを貞光で「そろ」と言ったのだろう。 これで毎年たくさんの小さなウナギを捕まえたものだ。 こんなものでジンゾク(カワヨシノボリ)でもなく ガナッチョ(アカザ)…

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栗尾商店の鳴門 炙り金時

南大沢にあるスーパー「グランルパ」で栗尾商店の炙り金時を発見思わず買ってしまった。 栗尾商店は明治橋にあって、ボクが小学校に通う道にあった。 当時は酒を売る店であったと思うのだが、片隅に和菓子などもあったと記憶する。 遠く東京郊外の店に、ふるさとのものを見つけるのはいいものである。

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小学校の東にあるお堂

ボクは小学校に入った途端に劣等生になった。 友人の鶴野、槌谷にもなんども、「お前はホンマにいかんやつじゃった」と帰郷するたびに言われている。 その劣等感を深く深く感じたのが、小学校のいちばん北にある校舎にいたとき。 校舎の廊下の1階突き当たりに扉があり、開けると正面に見えるのが、このお堂。 いったいこれはなんなんだろう? 小学校一の劣等生は思うのだ。 それは1965年、もしく…

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塾のあったところ

明治橋、武田人形店の角を東に入る。 ほどなく暗い路地の左手にお好み焼き屋さんがあった。 この独特の崩し字がよめなくて「おぬやき」と読んでしまっていたのが、懐かしい。 ここには一度も入っていない。 そう言えば、お好み焼き屋というのは子供にとって、ある意味縄張りのようなものだった。 その先を右手(南)に折れると左手にそろばん塾、右手に習字の塾があった。 そろばん塾の長屋のような茶褐色…

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干しいもと小豆のたいたもの

美馬市ふれあい市場であまりに懐かしいので買ってしまった。 干しいもと小豆を甘くたいた素朴な料理。 和食の世界ではリュウキイモ(琉球いも サツマイモ)と小豆をたいたものを、いとこ煮というのだけれど。 貞光、美馬ではなんというのだろう。 子供の頃、ばあちゃんがときどき作ってくれたっけ。 意外に日常的なもので、祭などに作ったことはなかったように思う。 これがこれが、大好きで、そ…

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長橋から東浦南を見る

ボクは幼稚園の頃まで(1960年代始め)、画像右二階建てのベージュの建物奥にあった町民住宅、森家へ子守に預けられていた。 森家での暮らしが楽しくて楽しくて、自宅に帰るのがイヤだった。 当時、母親が病気がちだったためか、子供の頃の思い出はこの森家の川縁でのことの方が多い。 このあたりを東浦南という。 洋館があって、手前に小さな谷がある。 ここには今も変わらず青石の橋がかかって…

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ハエ取り瓶

師走に入っての帰郷は大変だった。 いろいろありすぎて、疲れ果てた。 とても帰宅する気になれず、徳島市内で無駄歩きをした。 (無駄歩きとは目的のない歩きという意味ではなく、目的はあるのだけど当てのない歩きという意味) 市内両国から幸町、中洲を散策。 思わぬものが目に飛び込んできた。 なんと「ハエ取り瓶」じゃないだろうか? 形がいびつで、子供の頃に持っていたものとは違ってい…

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「すけない」は「少ない」

貞光では往々にして「少ない」とは言わない。 主に「すけないな」という。 つるぎ町役場で若いお母さんがケータイで「今日はすけないんでよ」。 いったい何が「すけない」のかな。

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