2009年10月23日

「やりこい」は柔らかい

貞光で数日暮らす。
明治橋『飯田食堂』に行く。
おばあちゃんが、おかずの並ぶ棚にあった、ゆでた鶏を持って「やりこいで?」と聞いたのだ。
「やりこい」は「柔らかい」なのだ。

おばあちゃん 「(この鶏)やりこいでー(?)」
飯田食堂のおばあちゃん 「やりこいよ」
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2009年10月12日

焼場から下る道 01

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ボクが焼場(火葬場)を知ったのは小学校に上がる前。
それは町と吉野川を縁取る孟宗竹の林の間、田や畑の中にあった。

貞光川は剣山から山と山の間を縫うように北に流れ落ちて、吉野川に合流する。
河口には大きな三角州ができて、左岸を「島(しま)」といった。
貞光川の左岸は吉野川に近づくにしたがって、土地が低くなる。
低地にある「島」は有名な暴れ川である吉野川の氾濫に、たびたび見舞われた。
その氾濫から「しま」を守っていたのが江戸時代にできた土手と、孟宗竹の林なのだ。
注/『貞光風土記』(柳川武夫 教育出版センター)には孟宗竹ではなくマダケとある。竹林には孟宗竹が植わっていたように記憶するが、マダケもあったのだろうか?
孟宗竹は吉野川のほとりにあり、流れ来る有機質を吸って、みごとに太く、清潔、静謐な空間を作っていた。
この空間を小学生のボクは、級友の富士、鶴野としばしば歩いたものだ。

焼場は「島」の一角にあった。
その建物は、幼稚園児のボクにとっても小さく感じられた。
焼場の後ろには竹林が迫っていたように記憶するが、定かではない。
今の地図を見ると、大須賀という地区で、道の駅「ゆうゆう館」の南側ではないだろうか?

ここで母を焼いたのだ。
その日の天候はわからない。
煙突からあがる煙、親戚のお兄さんに抱かれ、母の煙が天に昇るのを見た。
煙はまっすぐ空に上っていく。
焼場の炉の裏側から母が焼かれる火を見た。
それはただただ炎だった。

まだ幼児であったボクにとって、母の死は衝撃であって、恐怖であって、意味のわからないことであって、その悲しみはすぐに来て、すぐに去っていった。
こんなことを思い出していると、あれはもう45年も前のことなのか、と感慨深い。
posted by ぼうずコンニャク at 09:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月25日

変電所の淵が怖かった 01

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貞光川河口近くに変電所がある。
1960年代、ここは深い淵の連続であって、例えば上流から川を下ってくると、子供のとってここに入る勇気があるかどうか? 関所(乗り越えがたい)のようだった。
上流からくると、貞光川下流の中学校から、自動車学校あたりは穏やかであって、葦(ヨシかアシかわからない)の生える護岸があった。
そういえば護岸には必ずネコヤナギが見られた。
根は水の中まで伸びており、そこにイダ(ウグイ)、ヤマトバイ(カワムツ)がひそんでいた。

変電所の深い淵までは瀬であってエッシュウ(カマツカ)がいた。
そして変電所前の岩場があって深い深い淵がつながっていたのだ。

東の陸(おか)にあがると上流から、竹をかき分けて進むことになる。
竹と野バラがあって、子供はたいていここで手痛い目にあったのだった。
竹をかき分けて進むに左手に貞光川、変電所前に畑がある。
川岸には青石があり、貞光橋に至って、その下流まで子供心にも恐怖感で震え上がるほどの深みだった。

この貞光川東岸変電所前の深いことは子供にとって脅威だった。
川が濃緑色で底が見えなかった。
その名も「変電所」と言えば川の淵の名称であったのだ。

ちょっと上流の竹やぶをかき分けてみた川のやや浅い淵。
水底に巨大な(大きな)イダが悠然と泳いでいた。

1960年代、ここで泳げて、青石の上から淵に飛び込めるというのは、子供にとってあこがれだった。

そういえば、小学生の頃、この変電所の川で心臓マヒでお亡くなりになった青年(もしくは子供)がいたという。
たしか朝礼(小学校の朝の会で外で行われた)で言われた気がする。

さて、現在の変電所には淵という深みがない。
ここで国土交通省に文句を言うつもりはないが、君たち(国土交通省の役人)、一人一人は優れたいい人かも知れぬ。
でもこのみすぼらしさを見よ、と言いたいね。
posted by ぼうずコンニャク at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 貞光川/小川 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月20日

藤田商店では、お好み焼きを食べた

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 南中町、阿川酒造と郡さん(洋品店だった。ボクはここのお兄さんと山に三つ葉を取りに行ったことがある)の間を東に路地が通じている。
 入って、阿川酒造の壁の反対側に同級生、野木の家があり、その隣が確か東出商店と言わなかっただろうか? 飲み物や酒、食料品を売っていたのだ。
 そこを過ぎると、南から路地が合流してくる。そのまま東に歩いて行くと、左手に駄菓子屋のようなお好み焼き屋さんであるような店があった。店の名を知らなかったのが、今回以前のまま残っているのを発見、「藤田商店」だというのを知ったのだ。

 ボクの記憶が正しければ、たぶん1960年代初め頃、この店で一度だけ、お好み焼きを食べている。
 当時いちばん安いのは溶いた小麦粉にキャベツ、たぶん天かすなんかが入っただけのもの。
 このとき誰と一緒にいたのだろう? まだ小さかったはずだから一人では、ここまで来てお好み焼きを食べることなどできるはずもない。
 そのとき誰かが言った言葉を覚えている。
「卵入ったのは高いんじゃ」
 このとき初めて「卵入りのお好み焼きが高い」ということを知ったのだ。
posted by ぼうずコンニャク at 17:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月28日

まだバスは走っているのだ

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 南中町の一番北にあるのが1964(昭和39)年時、町史の地図でみると『立道たねもの店』だ。
 この北側にだれも橋だと思っていない、目に見えぬ明治橋がある。
 ここより北が地名でも明治橋となる。
 この店の前でいつも2,3人、バスを待つ人がいた。
 『立道たねもの店』は今(2009年)も健在で、そして今でも店の前には小さな停留所標識が立っている。
 まだバスは一宇の方に通っているんだろうか?
 5月には希な暑いくらいのなかを、北に向かって通りを歩いていると、バスがボクの疑問に応えるようにやって来た。
「徳バスまだ走っていたんだ」と思ったら“四国交通”とある。

 小さな頃、ボクは母親が病気がちだったために、東浦の森さんという家庭に昼間預けられていた。
 その森の父ちゃん(当時はそう呼んでいた)が“徳バス”の運転手だったのだ。
 残念ながら“徳バス”にはほとんど乗ったことがない。
 それこそ数えるくらい。
 剣山に登りに行くときくらいだから2、3回だろう。
 ただ、モヤモヤとした“徳バス”の記憶があって、ほとんど貸し切りのような状態で森の母ちゃんと父ちゃん、そしてみよちゃん、ちかちゃんで奥(端山方面)に行った。
 川原でお弁当を食べて帰ってきた、その川原の情景も白いモヤモヤのなかにある。
 あれは夢だったんだろうか?

 バスの運転手さんは若い女性だった。
 運転席の前に「つづろお堂」の文字がある。
 そう言えば、昔からバスの行き先は「つづろお堂」だった。
 「剣橋」というのもあったはずで、どちらからも剣山登山口までは、まだまだ遠い。
 そこから先へはどうやって行ったのだろう?
 まったく思い出せない。
posted by ぼうずコンニャク at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月23日

牛市のあったところ

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 いつの間にか民家が建ってしまっている。
 ここには昔、牛市があった。
 小学校の頃、たぶん低学年だったのだろう。
 窓から見るともなく見ると、たくさんの牛が、ここに集まっていた。
 広い土の地面にわらが散乱して、牛がテンデンバラバラに人に引かれている。
 はっきりとは思い出せないのだが、この場所が黒く見えるほどに牛はいたはずで、普段は黒い地面ばかりなのに、不思議な光景を見るような。
 この手前にある場所に、よどんだ池があり、その右手前が墓地。
 カメラを構えている背後に小学校がある。
 当時はクリーム色のペンキに塗られた校舎で、ここに便所があった。
 その当時牛市はありふれた光景だったのだろうか?
 今ではまったく思い出せない。
 正面左の坂道を上ると、墓地が続いている。
posted by ぼうずコンニャク at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月22日

ここには昔、中学校があった

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 何年ぶりだろう。貞光小学校に行ってみる。
 ただ通り過ぎただけだけど、変わり様にビックリする。
 ボクが小学校に通ったのが、1962年から1968年だったはず。
 このあたり計算するのが煩わしい。

 姉は6歳上で、ボクが一年生として入学したとき中学1年生だった。
 この姉が通っていたのが、正面に見える乳白色の建物の場所にあった中学校だった。
 黒っぽく細長い建物で屋根はスレート葺き、二棟並んでいたように記憶するが、定かではない。

 ボクが通っていたのは貞光川沿いのコンクリートの中学校。
 端山村や太田などの中学と統合されて、手狭になったために移転したのだろう。
 我が家では姉だけが通った校舎だ。
 姉にいわせると、まことに環境がよく、勉強しやすかったとのこと。
 手前のプール側にも木造校舎があって、本来は中学校のものだったように記憶している。
 後には卓球場とか体育館的な使われ方をしていた。
 校舎の前にはポプラの木。

 中学校が西山にへばりつくようにあったことなど、今では知る人も少ないだろう。
posted by ぼうずコンニャク at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月13日

貞光に帰る

 5月15日、16日、17日と故郷に帰る。
 ただし15日は昼過ぎに帰り着き、そのまま穴吹に向かい。
 翌16日は法事。
 夕方帰宅して、夜、できれば友人達に会いたい。
 でもむりかな。
 17日は島根県県水産アドバイザーの仕事で島根県松江に移動しなければならない。
 できれば町を歩いて、できるだけ写真を撮ってきたいものだが、難しいかな。
posted by ぼうずコンニャク at 21:42| Comment(1) | TrackBack(0) | ぼうずコンニャクのいいわけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月04日

田岡屋食堂と浦山に続く坂道

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 南町の南、大南町との境にあるのが田岡屋食堂だ。
 このあたりは大北町、北中町、明治橋、南町と続いて、なんだか町はずれという感じがした。
 でもどこか賑やかな場所の名残があった。

 例えば、阿波踊りがあって、その終点でもあり、南町の連はここで集まり、ここで散会する。
 そういえば、ここで阿波踊りの練習とか、子供に踊らせて「うまいへた」を評価したりしたのではないだろうか?
 ちなみにボクは阿波踊りが下手だったし、引っ込み思案で写真に写るのさえいやだったのだ。

 賑わった気配のある手前の道路は広い。
 広い道路の手前奥に専売公社。
 専売公社は貞光の町に繁栄をもたらした。
 この手前の道路左専売公社前に、澄屋旅館があり、また鍛冶屋さんがあったと記憶する。
 その反対側の記憶がない。

 さて、田岡食堂がここにある理由はなんだろうか?
 子供の頃、ここが剣山に向かうバスの停留所であった。
 でも、それにしては、ボクが子供の頃にはすでに町はずれであるように思えた。
 実は古くは、貞光から端山、一宇村に向かう道は、この坂道だったためだ。
 この田岡屋食堂から左(南)に行く道がボクの子供の頃にはすでに端山、一宇村への道だった。
 それ以前は、この坂道を浦山に上がり、尾根道沿いに一宇まで繋がっていたのだ。
 古い記憶だが、馬が橇を引いて奥(剣山方面から)材木を運んでいた、そんな映像が脳裏に浮かぶ。
 橇だったのか、馬車だったのか判然としないのだけど、とにかく馬を見ている。

 貞光の繁栄が端山、一宇村の葉煙草栽培にあったとすると、まさにここは江戸時代から貞光を支えた十字路だったわけだ。

 昭和31年(1956)生まれのボクにとって、この十字路が賑やかだった記憶はない。
 岡田屋食堂に入った記憶もない。
 ここにボクより年下の女の子と、たしか兄と同級生の男性がいたはずだ。
 今はどうなっているのだろう?
参考/『貞光風土記』(柳川武夫 教育出版センター)
posted by ぼうずコンニャク at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 町の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月15日

ごめんなさい

吉野川さん、三好家臣団さん、返信できなくて申し訳ありません。
なかなかブログの更新もままなりません。
でも5月には帰郷して、また貞光のあれこれを撮影してきたいと思っています。
posted by ぼうずコンニャク at 11:24| Comment(0) | TrackBack(0) | ぼうずコンニャクのいいわけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする