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この店のどこかに福助の絵、もしくは人形があった。その絵柄は子供に江戸時代を思わせるものだった。その当時、白黒テレビや映画で見る江戸時代というものが、どこか暗く漠然としたものであって、この福助が、その暗黒への入り口に思えた。話はそれるが当時、江戸時代というのは、そんなに遠い世界ではなかった。たしか民俗学の世界では江戸時代は昭和30年代までは「そこここに見られた」とあったはずだ。またテレビでの江戸時代は「三匹の侍」などから漠然と感じ取った、漠然として光景だった。
また、福助は殿様なんだろうか? どうしてお辞儀をしているのか謎でもあった。
大人にとっては福助=福助足袋、和装小物や着物関連の店であるのはわかりそうなものだが、子供にとっては運動会の「足袋」を買う店でしかなかった。
ボクが小学生の頃、運動会の徒競走は、足袋をはくのが普通だった。普段は靴を履いているのに、このときだけは白足袋なのだ。今でも白足袋を履いたときの地面の冷たさが思い出される。小学校低学年の運動会の思い出と言ったら、この地面の冷たさと、「もしもケツ(お尻、すなわち最下位)になったらどうしよう」というドキドキ感だけだ。
「福田屋」の店に向かって左側が「店(確か貞光では畳敷きになっていて店員、店主が座る場所をこう言ったのだ)」で、右側が硬い土間であったと記憶する。右側の奥にまた畳敷きの場所があり、この奥手から足袋などが出てきた。その当時はセンチではなく「文」だった。この店内をもう一度確かめたいなー。
この店で未だに謎なのが教科書がここで子供に手渡されたように記憶することだ。小学生か中学生の頃、なくしものの得意な劣等生で、よく教科書の行方がわからなくなった。そのとき「福田屋」でもう一度買えるんだろうか、と思ったものだ。
貞光の商店街、うだつの特徴は二層式で、しかも本瓦葺きであること。そして二階が低いというのも他の建物をみるとわかる。それがここだけが二階が高いのである。これも謎だ。
ボクが小学校一年(1963年かな)のとき、まずは金川金物店の同級生と一緒に南中町を北に歩き、「福田屋」の隣、「飯田のさんぱっちゃ」の同級生と一緒に明治橋まで歩く、その明治橋の栗尾商店と大久保百貨店の間の路地を左に折れて小学校に向かったのだ。同級生とは書いたけど、ふたりとも美人だったら、どうするの。例えば六歳、七歳で、三人で並んでボクだけ男で。「恥ずかしかったな」、ボクはいてもたっても居られなかった。そしてどうしてボクの幼なじみがこんなに可愛い女の子なんだろうと、惑乱していたのだ。
ちなみに飯田食堂も同年開業ということです。貞光の基礎を築いた“織本屋”“阿川酒造”“永尾酒造”といった老舗の豪商は明治の時代から貞光にあったし、その後大正、昭和初期には、周辺の村や町から貞光へ移住して商売を始めるという大きな流れをつくった元となった繁盛振りでもあったらしいヨ。
ただ、福田商店のおやっさんもおばはんも、いつもしかめっ面しとったようなイメージしかないし、いかにも売ってやっとんぞって感じで商売しとったような気がするんじゃけんど・・・そう思わん?
店を閉める時には、教科書の専売権を国金の本屋はんに譲ったらしいけんど、そのへんにはおもっしょい話があったようでわ。
家の二階部分が高いのは昭和になってからの建築じゃけんと思うヨ。脇町(徳島県で徳島町に次いで二番目に町になったほどの貞光町の「町」に対しその脇にできた町、すなわち脇町・・・って言うのはワシだけかな?)にある例のうだつの町並みの二階部分は、軒が低く造られておるんじゃが、昔は町人が二階からお殿さんを見下ろすようなことはあってはならんちゅうことかららしいんよ。明治以降、まして昭和になってから立てられた商家は、二階部分にも人が住めるように高くなったってこと。
ほなまた
ちなみに飯田食堂も同年開業ということです。貞光の基礎を築いた“織本屋”“阿川酒造”“永尾酒造”といった老舗の豪商は明治の時代から貞光にあったし、その後大正、昭和初期には、周辺の村や町から貞光へ移住して商売を始めるという大きな流れをつくった元となった繁盛振りでもあったらしいヨ。
ただ、福田商店のおやっさんもおばはんも、いつもしかめっ面しとったようなイメージしかないし、いかにも売ってやっとんぞって感じで商売しとったような気がするんじゃけんど・・・そう思わん?
店を閉める時には、教科書の専売権を国金の本屋はんに譲ったらしいけんど、そのへんにはおもっしょい話があったようでわ。
家の二階部分が高いのは昭和になってからの建築じゃけんと思うヨ。脇町(徳島県で徳島町に次いで二番目に町になったほどの貞光町の「町」に対しその脇にできた町、すなわち脇町・・・って言うのはワシだけかな?)にある例のうだつの町並みの二階部分は、軒が低く造られておるんじゃが、昔は町人が二階からお殿さんを見下ろすようなことはあってはならんちゅうことかららしいんよ。明治以降、まして昭和になってから立てられた商家は、二階部分にも人が住めるように高くなったってこと。
ほなまた
ちなみに飯田食堂も同年開業ということです。
運動会で履く足袋。我々は、すっぽん、と呼んでいました。
http://gx3.blog95.fc2.com/
またこの店がそんなに新しいとは思わなかったな。どこか重厚な建物だし、豪商って感じで。また飯田食堂の建物自体は明治だろう。ヒゲよ、そのネタの出所を教えてくれ。
>確かに愛想がないというか、とりつく島がない感じだったな。
たしかに、そうでしたね。教科書もらいにいっても、あいそもこそもない、事務的な感じでした。
飯田食堂の息子さんは、私より2,3歳年上の方がいました。その方が、経営されているのかもしれないですね。
飯田食堂の近く、美崎の魚屋の隣に「天神屋」という食堂も、うどんの美味い食堂でした。
確かに福田商店には“こんにちわ福助人形”があったような記憶が・・・
福田商店の前で、宮内っつぁんのオミコッサンを・・・
ほな、また