2007年08月29日

南中町『一屋』の金つば

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左から『一屋』の旧店舗、真ん中が永尾米店、右が新店舗で昔は履き物屋だった

 初っぱなから寄り道すると、「きんつば」という和菓子は江戸時代に生まれた。漢字で書くと「金鍔」。刀の鍔のような形をした和菓子という意味合い。同じく「銀鍔」という和菓子もあったとのこと。「鍔に似ている」くらいだから形は楕円形ということになる。でもボクが1960年代はじめに『一屋』で生まれて初めて食べた「金つば」は上から見ると真四角、横から見ると長方形だった。「金つば」が真四角になったのは確か明治か江戸の後期。餡を練り、丸く作り、小麦粉の溶いたものをくるめて焼くという本来の形よりも、大きな型枠に葛などを入れた練り餡を流し込み、四角く切ってか6方を焼く方が大量生産できるということで現在の「金つば」の形になったという。関東では今でも丸く平べったい蒸し「金つば」が残っている。

 話をやっとこさ『一屋(かずや)』にもどすとする。さて、ボクが物心ついた頃、1960年前後に『一屋』は開店したはずだ。確か店主の平井さんは猿飼か端山の人。町史の昭和39年(1964年)の街並み地図にはしっかり『一屋』が記載されている。
 子供心に『一屋』の店先は夢のような空間だった。入って右手にガラスケースがある。そのケースの上には市販のチョコレートやガム。奥には「お嫁さんの菓子」や砂糖(花や魚を形作っている)があったと記憶する。1960年代というのは新しい銘柄のチョコレートやガムがどんどん誕生した時代。ロッテの「ラミー」、不二屋の「ルック」、「チョコボール」に「プリッツ」。ロッテのペパーミントガムや懐かしい「渡辺のジュースの素」というのもある。特に「渡辺のジュースの素」は『一屋』で買ったのが最初だったはず。

 そのガラスケースの向こうに、当時まだ若くてきれいな女将さんいた。いつもは奥にいるオジサン(平井一彦さん)も優しい人であったなー。祖母とまんじゅう(和菓子)を買いに行く。当然、ひとりに一つずつなので、そのひとときが真剣そのもの。ちなみに当時のボクの夢というか願望が「『一屋』のまんじゅうを腹一杯食べる」ことだった。
「吹雪き」「金つば」、柿の形をしたもの、茶色いまんじゅう、白いまんじゅう。ボクがいちばん好きなのが何と言っても「金つば」であり、次に好きなのが柿の形をしたものだった。春には道明寺の桜餅があって、東京に出る前は「桜餅」=「道明寺」だった。また柏餅というのは『一屋』ではサルトリイバラの葉のもの。これなど貞光町全体が「柏餅」はサルトリイバラで作るものだったから気にもかけなかった。
 そう言えば「鹿子」という真ん中が漉し餡、回りが粒あんを葛などで丸くしたものもあり、こればっかり買っていた時期もあった。まんじゅう以外では夏場の「わらび餅」も懐かしい。透明なビニールに入っていて黄粉の小袋が1つつく。この黄粉の袋をなんとか余分にもらいたいな、と思っていた。

 今回の帰郷で、それこそ何十年か振りに『一屋』でまんじゅうを買った。店舗は昔の場所ではなく、永尾米店の南側。子供の頃には真鍋履物店のあった場所に移転していた。この真鍋履物店にはボクより2歳年少の男の子がいたはずだ。永尾米店は子供の頃から米屋というよりも、デッカイ仕舞た屋風。重厚感のある近寄りがたい家だった。

 久しぶりの『一屋』、店にはいると、若い女将さん。これは2代目の奥さんであるようだ。そして奥から懐かしいオバサンが出てきてくれた。やっぱり奥では今まだ現役のオジサンが和菓子を作っているという。
 懐かしい顔に出会えて、子供の頃に立ち戻ってしまいそうだ。そしてガラスケースに探したのが、真四角の「金つば」。それがこの日品切れであった。『一屋』の店先に立ったときから、心の中で「金つば、金つば」と称えていたので、落胆は大きい。仕方なくボクは吹雪き、まんじゅう好きの太郎は栗まんじゅうと白いまんじゅう。

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 この吹雪とまんじゅうを町歩きの最中に、また飯田屋に入って、うどんが来る間に食べたが「やっぱりうまい」。しかしなんとしても悔しいのが『一屋』の「金つば」を食べられなかったことだ。父も老齢だし、また近い内に貞光に帰ってくるだろう。そのときこそ太郎と「金つば」を5つも6つも食ってやる。

 店の隅を見ていると子供の頃「嫁さん菓子」と言っていたと記憶する。平べったい砂糖味の菓子があった。これも懐かしいな。記憶が正しいとすると結婚式などに使われたものだろうか?

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この菓子は懐かしい。「嫁はん菓子」「嫁さん菓子」と言っていたが正式名がわからない

 話は1970年代半ばに移る。この当時、『一屋』で買っていたのがコカコーラの1リットル瓶である。これも懐かしい。これを買い込んで、同級生とボクの部屋に集まっては騒いでいた。今は島根県で水産高校の教師をしているカンイチ、ヒゲ、鶴野、美馬町(現美馬市)の藤本勝紀。何をやっていたかというと、当時のヒット曲「あなた」のレコードをかける。それに合わせて銘々が歌うのだ。その歌声を録音して聞くという遊びである。レコードに合わせて歌っていると、なぜだか歌がとてもうまく歌えている気がする。でもそれを改めて5インチのテープレコードで聞き直すと、恐るべきヘタクソ振りなのだ。このバカ騒ぎを勉強しながら寂しく聞いていたのが隣の阿佐のテッチャンである。まあテッチャンは東京理科大、ボクは一浪して中央大学という差はここに生まれたんですな。

一屋(かずや) 徳島県美馬郡つるぎ町貞光字町9
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2007年08月15日

南中町「福田屋」

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 この店のどこかに福助の絵、もしくは人形があった。その絵柄は子供に江戸時代を思わせるものだった。その当時、白黒テレビ映画で見る江戸時代というものが、どこか暗く漠然としたものであって、この福助が、その暗黒への入り口に思えた。話はそれるが当時、江戸時代というのは、そんなに遠い世界ではなかった。たしか民俗学の世界では江戸時代は昭和30年代までは「そこここに見られた」とあったはずだ。またテレビでの江戸時代は「三匹の侍」などから漠然と感じ取った、漠然として光景だった。
 また、福助は殿様なんだろうか? どうしてお辞儀をしているのか謎でもあった。

 大人にとっては福助=福助足袋和装小物着物関連の店であるのはわかりそうなものだが、子供にとっては運動会の「足袋」を買う店でしかなかった。
 ボクが小学生の頃、運動会の徒競走は、足袋をはくのが普通だった。普段は靴を履いているのに、このときだけは白足袋なのだ。今でも白足袋を履いたときの地面の冷たさが思い出される。小学校低学年の運動会の思い出と言ったら、この地面の冷たさと、「もしもケツ(お尻、すなわち最下位)になったらどうしよう」というドキドキ感だけだ。

「福田屋」の店に向かって左側が「店(確か貞光では畳敷きになっていて店員、店主が座る場所をこう言ったのだ)」で、右側が硬い土間であったと記憶する。右側の奥にまた畳敷きの場所があり、この奥手から足袋などが出てきた。その当時はセンチではなく「文」だった。この店内をもう一度確かめたいなー。

 この店で未だに謎なのが教科書がここで子供に手渡されたように記憶することだ。小学生か中学生の頃、なくしものの得意な劣等生で、よく教科書の行方がわからなくなった。そのとき「福田屋」でもう一度買えるんだろうか、と思ったものだ。

 貞光の商店街、うだつの特徴は二層式で、しかも本瓦葺きであること。そして二階が低いというのも他の建物をみるとわかる。それがここだけが二階が高いのである。これも謎だ。

 ボクが小学校一年(1963年かな)のとき、まずは金川金物店の同級生と一緒に南中町を北に歩き、「福田屋」の隣、「飯田のさんぱっちゃ」の同級生と一緒に明治橋まで歩く、その明治橋の栗尾商店と大久保百貨店の間の路地を左に折れて小学校に向かったのだ。同級生とは書いたけど、ふたりとも美人だったら、どうするの。例えば六歳、七歳で、三人で並んでボクだけ男で。「恥ずかしかったな」、ボクはいてもたっても居られなかった。そしてどうしてボクの幼なじみがこんなに可愛い女の子なんだろうと、惑乱していたのだ。
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2007年08月11日

南町のこと01

 商店街の記憶は南町から始まる。もっとも古い記憶はたぶん幼稚園以前だと思うので1960年前後の道を通り過ぎる馬。この馬が材木かなにかを引いていた。たぶん奥で切り出された材木を運んでいたのだろう。奥と唐突に書いたが、子供の頃、皆瀬、端山、一宇(村名では「いちう」だが、普通「いっちゅう」と発音する)というのがそれにあたる。例えば「奥から出てきた」というと貞光町からみて剣山方面から町(北)に出てきたということになる。

 南町の北の境は商店街から祇園さん(八坂神社)へと西に上る細い坂道、祇園小路、南の境は田岡食堂から浦山に上る坂道までとなる。薬屋、肉屋、食料品店に酒屋、カメラ屋、クリーニング店、食堂が3軒、米屋に玩具店、電気屋に散髪屋(さんぱっちゃ)、銭湯が一軒。商店数も多く、貞光の中心からは外れるものの、賑やかなところだった。

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左手手前が金川金物店で南中町、そのとなりの松浦薬局からが南町

 商店街でのいちばん古い記憶は「貞光温泉」、すなわち「南風呂」のことだろう。自宅に風呂があったのにもかかわらず、夕方になるとつかり(入浴)に行く。この銭湯は関東の湯船がいちばん奥にあるものではなく、明らかに関西系のもの。湯船が真ん中にあり、端っこに薬湯(昔はクコ)がある。思い出すのは湯船を中心にぐるりと囲むように身体を洗う。お湯も湯船から汲んでいた。その当時、今のようにお湯と水の出る蛇口が何組か壁面に並ぶという形態であったのか思い出せない。
 女湯で祖母に抱かれて仰向けになって髪を洗ってもらっていた。となるとやはり3、4歳の頃(1960年前後)だろう。そして湯船で手ぬぐいの風船を膨らませる。魚取りの真似をする、なんていう遊びあ好きだった。

「べった(関東ではメンコ)」は「うすいのおもちゃや(臼井玩具店)」で買う。祖母が野菜などを買い求めていたのは「立道(食料品店)」。「岩井(牛乳店)」でアイスキャンデー(アイスクリームよりも、アイスキャンデーという方があたりまえだった)と牛乳を買う。「尾花(肉店)」のコロッケは初めて買ったとき10円だったと記憶する。
 食堂が3軒と書いたが、「吉田屋」はお好み焼き屋だった。店内に入ると焼き台があり、銘々にお好み焼きを焼いてくれる。子供の目で見ると店主奥さんはかなり老齢に見えた。オジサンは石を磨くのが趣味だった。貞光では吉野川の蛇紋石、茶石(茶色い石で紙ヤスリで磨くと光沢が出る)を磨くのが趣味という人が多かった。ラーメンを初めて食べたのは「みどりや(食堂)」で、確か小学校低学年のときだ。
 散髪は「玉置(理容)」だったし、薬は「松浦薬局」。

 南町の記憶は膨大で、当然個人的なものだからとりとめがない。また帰郷しても南町だけは歩きたくない、という思いもある。今回クルマで素通りするに、この多くの商店は消滅してしまっている。
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2007年08月07日

南中町『福島楽器店』

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 生まれて初めて自分でシングルレコードを買ったのがここである。
 確かザ・ピーナッツの「大阪の女」(1970年)だった。なぜぜんぜん好きでもない歌手のシングルを買ったのか、どうしても思い出せない。ようするに当時はレコードというのはかなり最先端を行く代物であり、「買うだけで」ウキウキするものであった。また中学2年というとそろそろテレビのなかの女性に憧れるようになる。その初期の対象が歌手だったのだろう。
 当時ボクが熱心に聞いていた音楽はPPMだったり、姉が聞いていたエルビス・プレスリーだったり、カトリーヌ・スパークだったり、シルビー・バルタンであったと思う。姉はボクよりも6歳上であり、本棚の一角にたくさんのシングル盤をため込んでいた。その影響というものが、いちばん近所のレコード店である福島楽器店での買い物につながったようである。
 後々レコードを買うのは国金書店となる。もっと後になると西浦のレコード専門店となるが店名は忘れてしまった。
 当時、シングル盤が650円だったのではないか? 昭和45年のこの値段は今日の2千円を超えるものだと思われる。考えてみるとレコードというのはまことに高いものだった。

 1970年の福島楽器店を思い出してみよう。左手にタイルを貼った陳列ケースがある。確かここには大正琴や三味線、ギターなどが置かれていた。そして正面が引き戸、あけるとガラスケースがあり、奥に三味線や大正琴、クラシックギターがある。またガラスケースの向こうは確か畳敷きであったと記憶する。ガラスケースにはガットギター(クラシックギター)の弦、三味線の弦や撥、ハーモニカや笛が置かれていた。小学校のときに使ったソプラノのリコーダーやハーモニカもここで買ったのだろうか?
 応対してくれたのは子供心に粋な感じのする女性だった。とりとめのない文章になるけれど、そう言えばボクは中学2年のときにはギターを持っていた。禁じられた遊びくらいは「らしく」ひけた覚えがあるのだけれど、あのフレッドの浮き上がった、すぐチュウーニングの狂うギターを買ったのも福島楽器店ではなかったか?

 とりとめもなく思い出し、思い出しながらの文章を続ける。

 この店の外観は洋風である。いつ頃、建てられたものか、わからないが1960年代から1970年代でも、どこかしらモダンなものと言えそうだ。そう言えば、この木造ペンキ塗装の建物は、どこか学校を思わせる。年代は不明ながら、姉がバレーを習っている光景が記憶の片隅にある。そのバレー教室はどこだったのだろう? 福島楽器店の二階ではなかったか。画像の右手に入り口があって奥に進むと二階への階段がある。そこを祖母と姉についてのぼったのではかなったろうか。
 昭和39(1964)年の商店街地図では、福島楽器店の南半分は『タミ美容』となっている。今の外観からも美容室らしい雰囲気が残っている。
posted by ぼうずコンニャク at 11:13| Comment(0) | TrackBack(4) | 商店街の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする